カミュの読書ノート

山根 基世 フリーアナウンサー
エンタメ テレビ・ラジオ 読書

 19歳の頃のあの苦しさは何だったんだろう。初めての東京暮らし。三畳一間の古いアパートの部屋。トタンだったのだろうか、水を流すとドタドタ音のする小さな流しで皿を洗いながら泣いていた。理由のない焦燥感に苛まれ、もうすぐ20歳だというのに何者でもない自分が惨めで。ある日、今日自分が死んでも明日からの世の中、何も変わらないことに気づいて猛然と腹が立った。じゃあ私が生きている意味って何なのよ! と。

山根基世氏 

 その頃読んだカミュの『シジフォスの神話』(新潮文庫、絶版)にいたく感動した。その内容を延々書き写している大学時代の読書ノートが残っている。とはいえ、不条理や自殺について考察した哲学的で難しい内容だ。何も理解してはいなかった。

 私が心うたれたのは、ギリシャ神話のシジフォスについて語っている最後の短い章だけだ。神々の怒りをかったシジフォスは、間断なく岩を山頂に運び上げるという刑罰を科せられる。山頂に達すると、岩はその重みで又転がり落ちる。再び運び上げる。永劫に続くその繰り返し。全身全霊で運び上げても決して達成することのない労働。だが、それを承知でなお、自分の意志で一歩一歩岩を運び上げるシジフォス。無駄に思えるその一歩にこそ意味があると、私は受けとめ深く頷いた。どうせ最後は死ぬとわかっている生に、へっぴり腰でしがみついている自分をあざ笑うような頭でっかちだった私。「目の前の一歩を大切にする」のかと、諦めのような希望が湧いた。

 大学の卒論は当然この作品にしたいと思ったが、残念なことにカミュはフランス語でしか書いていない。私の専攻は英文学、今更卒論のためにフランス語を学び始める気力はなかった。

 シジフォスに最も近い英文作品として選んだのはベケットの『ゴドーを待ちながら』(白水社)。主な登場人物2人が「どうしようもねぇ」と「まだ何もかもやってみたわけじゃない」という台詞を繰り返しながら、ひたすらゴドーを待つだけの芝居だ。

 そして、同テーマと思える椎名麟三『永遠なる序章』(新潮文庫)。主人公が死刑囚の手記を読んだ時の感想が強烈に心に残っている。彼は、何か重要なことが書かれているのではないかと期待したが、手記にはただ毎日、飯がうまかったとか、おかずが何であったとか無意味なことしか書かれていない。彼は腹を立てる。だが、「僕にはこの頃やっと判ったのです。その男にとっては生活が、(略)今日この一日の生活が大切なのだったと」。他の人にはまったく別ものに見えるかもしれない3冊だが、私にはほぼ同質に思え、ここから受け取ったメッセージは、今も私のものの見方、感じ方の底に貼りついているように感じる。

「女の子らしい本でなきゃ」

 その後NHKに入り、高視聴率番組を担当していた若き女子アナ時代のこと。女性雑誌の取材で「影響を受けた1冊」について語るよう求められた。私が正直に『シジフォスの神話』を挙げようとすると、番組責任者から「ダメだよ、そんな小難しい本じゃ、もっと若い女の子らしい本でなきゃ」と言われ、あろうことか、私は従ってしまったのだ。代わりに何の本を挙げたかは忘れたが、意識の低かった自分を屈辱とともに思い出す。その後も似たようなことは度々起こり、長く働く日本の女性なら誰でも一度はぶつかる壁、その悔しさを、たっぷり味わった。

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source : 文藝春秋 2023年5月号

genre : エンタメ テレビ・ラジオ 読書