「人生を決めた本」と問われ、この際、自分にもあった多感な時期に確かに惑溺し耽読したが、今では遠い記憶の片隅に放り置かれていた本を思い出してみたいと考えた。今の職業に関わるものは除外し、10代に手にしたものに限定した。マンガも省いた。私は、マンガから計り知れない思想的精神的栄養を得てきており、そのような作品を数えれば、とても片手では足りない。
(1)星新一『悪魔のいる天国』(新潮文庫)
読書の愉楽を教えてくれたのは、星新一である。中学生のころ、毎週末、親からもらった1000円札をもって近所の大型書店に行き、新潮文庫の星新一の本を2、3冊買うのを常とした。そのショートショートが指し示す近未来像と現代との無気味な符合性には、今読んでも慄然とするものがある。だが、何よりも私が魅了されたのは、その簡潔でドライな文章である。“男がいた。エヌ氏という”——こんな調子の文体にしびれた。爾来、星新一は自分にとって文章の先生である。本書は、真鍋博の印象的なカバーイラストとともに忘れ難い。
(2)レイ・ブラッドベリ『火星年代記』(ハヤカワ文庫)
星新一の書いたものを貪り読むなかから、芋づる式に読書の世界は開けていった。彼がSF作家になるきっかけとなったという本書を皮切りに、ブラッドベリの作品も片っ端から読んだ。『火星年代記』はまさに一大叙事詩であり、『イリアス』や『オデュッセイア』に比肩する人類の生んだ傑作だと自分は思っている。ブラッドベリのなかでは、『刺青の男』も格別である。そのなかの流れ星になる宇宙飛行士の物語は、心に刻まれている。しかし、今読み返した時、あの抒情的な世界に耽るにはあまりに枯渇した自分を発見するのではと不安を覚える。
(3)北杜夫『木精』(新潮文庫)
北杜夫も星新一がきっかけでその名を知った。星新一のショートショート集の解説を書いていたのを読み、なんてとぼけた文章を書く人だと思った。
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source : 文藝春秋 2023年5月号