二〇一四年も終わりに近づいた現時点から見ていても、来たる二〇一五年もまた数多(あまた)の難問に直面せざるをえないことだけは確かなようである。なぜなら、二〇一四年に起った問題のほとんどが、解決のきざしすら見えない状態で残っているからで、そうなってしまった原因は、樹を見るのに熱中して森を見ることを忘れたために、単なる問題であったものも難問化してしまい、ゆえに二〇一五年もそれらをすべて引きずることになるからである。
人間世界にとっての「森」は、つまり最高の目的は、平和の樹立にあると思っている。「樹」は、その目的に達するための手段にすぎない。にもかかわらず人間とは、樹を前にしただけでどう枝葉を切り払うべきかで意見が分裂してしまい、言い争っているうちに樹は森の一部でしかないことを忘れてしまう。これを、「手段の目的化」という。「手段の目的化」による最大の弊害は、問題が横道に横道にと逸れていることに、誰もが気づかなくなってしまうことなのだ。ニッチもサッチも行かなくなってしまった難問題とは、手段の目的化の結果にすぎない。ウクライナ問題しかり、パレスティーナ問題しかり、EUの経済政策しかり、そして日露・日中・日韓をめぐる諸々の問題もしかり、である。
ただし、平和の樹立こそが至高の目的とは言っても、いかなる犠牲を払っても成し遂げることまでは意味しない。歴史に親しむ歳月が重なった今、痛感していることが二つある。
第一は、人間とは、たとえ五十年間であろうと平和さえ保証されれば、相当な成果をあげる能力を持っているという、歴史上でも立証されている事実。
第二は、とは言えこうも生産性を高めることのできる平和とは、自由な精神の活動も同時に保証された状態での平和であり安定でなければならないということ。
私の家の近くに、皇帝アウグストゥス広場という名の広場がある。この初代皇帝が建造させた皇帝廟を中心に、テヴェレ河に面した一方にはこれまた彼が建てさせた「平和の祭壇(アラ・パーチス)」を、ムッソリーニが移築し、残る三方の二辺ともを古代ローマ式の円柱が立ち並ぶ回廊づくりにした一画だ。
ムッソリーニのローマ帝国への憧れはわかるが、そこを行き来するたびに考えてしまう。なぜ古代ローマ時代の円柱に比べて、ファシズム時代の円柱は神経が通っていず、浮彫りもモザイク画も稚拙な出来なのか。なぜ、二千年も過ぎているのに、この程度のものしか作れなかったのか。第二次世界大戦に突入するまでのイタリアは、一応にしろ平和であり国内もそれなりに安定していたのである。だが、イタリア人の才能が最も効果的に発揮される造型分野での成果はこれだった。古代ギリシアのスパルタも、長い歳月にわたって国内は安定していたのである。それでいて、後世には何ひとつ遺せなかった。「スパルタ式」という言葉が遺っただけである。
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source : 文藝春秋 2015年2月号