日本人の多くが抱いている、「宗教はイコール平和的」という思いこみは捨てたほうがよい。宗教とは、それが一神教であればなおのこと、戦闘的であり攻撃的であるのが本質である。平和的に変わるのは天下を取った後からで、それでも他の宗教勢力に迫られていると感ずるや、たちまち攻撃的にもどる。そして代表的な一神教は、キリスト教とイスラム教とユダヤ教。
戦闘的で攻撃的なのが一神教の本質だが、それも彼らにすれば当然なのだ。一神教は、ただ一人の神しか認めていない。ゆえに他の神を信仰する人は真の教えに目覚めない哀れな人とされ、布教の対象になる。だがそれでもまだ目覚めない者は救いようのない「異教徒」(つまり敵)と見なされ、殺されようが奴隷に売られようが当然と思われていた。
一神教には、異教徒以外にも異端がいる。「異端」とは、真の教えには目覚めていたのだがその後誤った方向にずれてしまった信徒を指す。異教徒が「家の外の異分子」ならば、異端は「家の内の異分子」。イスラム教の側から見れば、キリスト教徒の欧米人もキリスト教徒ではない日本人も、異教徒であることでは同じなのだ。イスラム世界の内でも、シーア派にとってのスンニ派は異端で、スンニ派から見ればシーア派のほうが異端になる。
この一神教の対極にあるのが多神教である。古代のギリシアやローマの人々も多神教徒だったが、現代の多神教国は日本だと思う。
一神教と多神教のちがいは、神の数にはない。古代のローマ人も、合計すれば三十万になったという神々の全員を信仰していたわけではなかった。一人一人は守護神を持っていたが、それを他者に強制していない。それどころか、敗者になったカルタゴの神にも、勝者であるローマの神々の住まうカンピドリオの丘に神殿を建ててやったのだ。ローマ人の「寛容」の精神とは、他者が最も大切にしている存在を認めることにあったからである。日本人だって、お稲荷さんを信じていない人でも、境内に立つ狐の像を足蹴にしたりはしない。真の意味の寛容とは多神教のものであって、一神教のものではないのである。
それでも一神教であるキリスト教世界は、異教や異端への弾圧で荒れ狂い、十字軍まで起して大騒ぎした中世の一千年を経験し、ルネサンスや啓蒙主義を経て大人になったのである。一方、イスラム世界でも過激派となると、「大人」になることを頑強に拒否しつづける。つい最近のニュースでは、今は「イスラム国」の占領下にあるイラクの都市モスールでテレビでサッカーの試合を観ていた十三人の少年たちが、コーランの教えに純粋でないとされ、広場に引き出されて殺されたと報じていた。
たしかにコーランやハーディスは、異教や異端への憎悪に満ちている。彼らは敵なのだから、殺害も奴隷化も正当だと断言している。だがあれは、現代からは一千四百年も昔の七世紀の、それも二十年足らずの間の、苦闘していた時期のマホメッドの「教え」である。その後数年も経ずにイスラム勢力はシリアのダマスカスを征服して首都にするが、自分の説いた「教え」がアラビア半島から北アフリカにまで及んでいく大拡張時代を見ずにマホメッドは死んだのだ。敵に囲まれて戦闘的で攻撃的にならざるをえなかった時期のマホメッドの「教え」を、二十一世紀のイスラム過激派は、一千四百年も過ぎても踏襲すべきと主張しているのである。
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source : 文藝春秋 2015年3月号