今年はノーベル賞の当り年だった。北里大学の大村智博士が寄生虫感染症の治療法に関する発見で医学生理学賞の受賞が決まったと思ったら、すぐそれに続いて、東京大学宇宙線研究所の梶田隆章所長が、ニュートリノ質量の実証で物理学賞の受賞に決まった。これで日本はニュートリノでは二〇〇二年の小柴昌俊博士に続いて、二つめの受賞ということになる。
私は多年にわたってニュートリノ研究を取材してきたので、それについて書いておきたい。私が特に親しくしていたのは、小柴さんと梶田さんの間にはさまれた時代の宇宙線研究所所長の戸塚洋二さん。ノーベル賞に最も近い日本人といわれ続けたのに、〇八年にがんに倒れて不帰の客となった。私はニュートリノ研究者時代の戸塚さんに度々取材して、『サイエンス・ナウ』(朝日文庫)、『サイエンス・ミレニアム』(中公文庫)の二つの著書を書いたし、がん患者時代の戸塚さんにも取材して『がんと闘った科学者の記録』(文春文庫)を編著の形で出している。
なぜ日本がニュートリノで二つもノーベル賞が受賞できたのかというと、日本にはカミオカンデという世界一のニュートリノ観測装置があるからなのだ。その観測装置が置かれていたのは岐阜県神岡町の亜鉛鉱山の中。昔から宇宙線の研究はよく鉱山の坑道を利用して行われた。写真の乾板を山積みにしてしばらく置いておき、宇宙線が通過した飛跡を後から現像して拾い出すという方法だった。今は写真乾板は使わず、小柴さんが発案した巨大な水タンクの中を宇宙線が通過するときに発する微細な光を光電子増倍管で拾いあげるという画期的な方法に変わっている。
今は昔話になったが、宇宙線の研究者は、早朝、鉱夫とともにトロッコに乗って鉱山の奥深くまで入っていった。私が最初にカミオカンデを訪れたのは一九八九年だったから、入る方法はそれしかなかった。今は横腹に掘り抜かれた巨大な坑道から車で入り、あっという間に、観測機器が立ちならぶ鉱山の中心部の研究センターにたどりつく。中心部には、スーパーカミオカンデもあるが、カミオカンデの跡地に作られた、もう一つのニュートリノ検出装置カムランドもある。またこの宇宙の大半を占めているといわれるダークマター(正体不明の暗黒物質)の検出装置XMASSがある。ブラックホールの合体や超新星爆発などの超巨大な宇宙現象が起きれば必ず発されるはずの重力波の検出装置KAGRA(かぐら)もある。ここは世界でも珍しいほど、宇宙の根源解明にかかわる物理学の最先端の研究装置が集積した場所なのだ。
カミオカはかつて、どこにでもあるような鉱山(亜鉛・鉛)にすぎなかった。しかし、そこにカミオカンデが作られ、それが超新星1987Aの爆発で飛来した十一個のニュートリノをとらえたところからすべてが変った。それは日本にノーベル賞をもたらすとともに、宇宙物理学にニュートリノ天文学という新領域を開いた。そしてもっと大きな夢も与えた。
二〇世紀が終りを迎えるあたりで、物理学の世界では、標準理論と呼ばれる一群の数式で、この宇宙に生起する物理事象は基本的にほぼすべて記述できるという考えが支配的になった。標準理論は、検証すればするほどいやになるくらい正しいとされ、もし明白に標準理論をくつがえす事実が発見されたら、それ自体が、ノーベル賞に値すると言われだした。そしてそれこそがまさにスーパーカミオカンデで起きたことだった。梶田さんのニュートリノに質量ありの実証(一九九八)と、今年のノーベル物理学賞がそのことをまさに証明している。戸塚さんは、一九九二年に出した教科書『素粒子物理』(岩波書店)の中でこう書いている。「現在最も必要とされていることは、標準模型を越える新しい実験事実の発見である。新事実が一つでも発見されれば、一九七〇年に起こった怒濤のような進歩が間違いなく起こるであろう」。そして、標準模型の彼方を探すための最大のターゲットとして、標準模型では0と仮定していたニュートリノ質量の問題を取り上げていた。梶田さんのノーベル賞はまさにこのターゲットを撃ちぬいたのだ。
そして、三千トンの貯水タンクを検出器に使っていたカミオカンデに対して、貯水量を五万トンにスケールアップしたスーパーカミオカンデが、ニュートリノ質量問題でも、その後のもろもろの素粒子研究でも、最新最高の検出装置として使われている。それだけの巨大検出器を鉱山の中に作るためにはトロッコでは間に合わず、巨大な工事用道路を内部に縦横に作り、トラック、ブルドーザーなどの巨大重機を大量に入れて、十階建てのビルを作るようにして作ったのがスーパーカミオカンデだった。
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