終戦後の真摯な思想的格闘『哲学入門』田辺 元

ベストセラーで読む日本の近現代史 第17回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ニュース 社会 読書

 田辺元は、抜群に頭がいい知識人だ。現代的に言うと、偏差値が極度に高いが、地アタマもいいので、難解な事柄を水準を落とさずに、誰にでもわかる言葉に言い換えることができる。田辺元は、師の西田幾多郎とともに京都学派を代表する哲学者だった。1939年に京都帝大で行った講演録が翌年に『歴史的現実』という表題で岩波書店から刊行されるとベストセラーになった。田辺は、〈具体的にいへば歴史に於て個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げる事が生死を越える事である。自ら進んで自由に死ぬ事によつて死を超越する事の外に、死を越える道は考へられない。〉と強調した。学徒出陣兵や特攻隊員は『歴史的現実』を読んで、自らの死によって悠久の大義に生きることを納得したという。

 45年3月、田辺は、京都帝大を退官し、7月に群馬県北軽井沢に転居する。その後、この地をほぼ動かずに、半ば隠遁したような生活を送っていた。この生活には、戦時協力に対する自己批判としての意味があったのだろう。46年には『懺悔道としての哲学』(岩波書店)を上梓し、戦争責任の問題を扱った。田辺の懺悔道は、当時言われていた「一億総懺悔」のような無責任な発想ではなく、キリスト教のメタノイア(悔悛)に近い、真摯な思想的格闘であったが、それは正確に理解されなかった。

 田辺は、48〜51年、北軽井沢で、長野県の小中学校の教師が組織する信州哲学会の会員約20人を対象に、哲学講義を行った。

 

 この講義は、筑摩書房から新書版で『哲学入門――哲学の根本問題』(49年5月)、『哲学入門――補説第一 歴史哲学政治哲学』(同年7月)、『哲学入門――補説第二 科学哲学認識論』(50年4月)、『哲学入門――補説第三 宗教哲学・倫理学』(52年2月)として刊行され、いずれもベストセラーになった。敗戦後、数年間は、哲学本が売れ筋だった。ちなみにこの4冊の新書は、63年に『田辺元全集 第十一巻』(筑摩書房)に合冊され刊行された。同じ判型の田辺元『哲学入門』も筑摩書房から刊行された。本稿の引用は全集版による。受講生は小中学校の教師であるが、現在の日本でいうならば、文学部哲学科もしくは倫理学科を卒業したレベルの哲学・思想史に関する基礎知識を持っている。従って、田辺は、哲学者や思想家について概論的な説明は行わず、いきなり事柄の本質に踏み込む。具体的には、こんな調子だ。

ファウストの疑問

〈皆さんはゲーテの『ファウスト』をお読みになつてゐられるでせう。そのはじめの、「哲学も学んだ、何も学んだ、余計な話だが神学まで学んだが、得るところはない」といふファウストの嘆き、述懐をする場ではなくて、それより後に、彼がワークナァといふ助手を伴ひいつしよに外の様子を見ようといふので、人間の世界を見るために、市中を散歩してから再び書斎へもどつて、夜またファウストが書斎で自分の述懐をする、そのぢき後からメフィスト(引用者註*悪魔)がでてくる。そのでてくる前の書斎の場でファウストはかういふことを言ふ。

「自分は散歩したりして人間に対する愛とか自然に対する愛といふものが甦つた。最初の非常にふさいでゐた状態から見ると気が軽くなつた。しかし、依然として自分の心は乾き切つてゐて、本当に生きがひを感ずることができない。かういふやうに自分の心が枯渇した時には、何よりも啓示に頼つて、啓示により自分の心を潤して貰ふといふことが唯一の方法であらう。啓示の最大なるものは新約聖書である。自分はそこで新約聖書を取上げて、新約聖書の中の言葉を自分の好きなドイツ語に飜訳してみる。これが自分の新しい元気を喚び起してくれるところの方法だ」といふことを言ひながら聖書を取つて『ヨハネ伝』の初めの飜訳にとりかかる。〉

「ヨハネによる福音書」(「ヨハネ伝」)の1章1〜3節に、〈初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。〉と記されている。ギリシヤ語のロゴスを言と訳している。キリスト教神学のロゴス・キリスト論という考え方によると、人間の特徴は言葉を使うことで、言葉から愛、憎しみ、善、悪が生じる。田辺は、ゲーテが『ファウスト』で行ったロゴスのドイツ語訳のエピソードを世界史の転換と関係づける。

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source : 文藝春秋 2015年2月号

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