資本主義の構造を知る『資本論』マルクス(エンゲルス編)

ベストセラーで読む日本の近現代史 第18回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 最近、マルクスの『資本論』に関する原稿や講演の依頼が増えた。どうもフランスの経済学者トマ・ピケティ『21世紀の資本』の邦訳が去年12月に刊行され、ブームになっていることと関係しているようだ。もっともピケティがマルクスの『資本論』を精読したとは思えない。ピケティの資本や賃金の概念は、マルクスとまったく異なる。マルクスの『資本論』によると賃金は生産の段階で資本家と労働者の力関係で決まる。利潤の分配は資本家間の問題だ。これに対してピケティは賃金を利潤の分配の問題と考える。ピケティは、〈要約すると、長い目で見て賃金を上げ賃金格差を減らす最善の方法は、教育と技能への投資だ。結局のところ、最低賃金と賃金体系によって賃金を5倍、10倍にするのは不可能だ。そのような水準の進歩の達成には、教育と技術が決定的な効力を持つ。〉(『21世紀の資本』みすず書房)と指摘する。資本の収益率が、産出と所得の成立を上回るようになると、資本主義社会の基盤を崩壊させかねない危機が生じるとピケティは警鐘を鳴らす。

 

 過去にもこのような資本主義崩壊説は何度も語られた。しかし、実際に資本主義が崩壊することはなかった。資本は、恐慌を繰り返し、人間を疎外しながらも、再生産を繰り返す内在的な力があることをピケティは過小評価している。累進的な所得税と相続税に加え、累進的な資本税を導入し、富の再分配を実施すべきだというのがピケティの処方箋だ。特に資本税の重要性について〈金持ちの貢献能力をきちんと評価できるのは、資本の直接課税だけなのだ。〉と強調する。現実的に考えた場合、この三つの累進課税を実施するためには、グローバルな資本に対抗できる強大な国家が必要になる。そして、その国家を運営する官僚に強大な権力を付与する必要が生じる。そうなると、権力を背景に国家が経済に干渉することで、国民の平等を実現するというファシズムやスターリニズムに似た体制が生じかねない。

資本論の二つの文体

 マルクスは、ピケティをはじめとする現在の主流派経済学者(一昔前まで日本では近代経済学者と呼ばれていた)とは、まったく異なる経済観、国家観を持つ。もっともマルクスの『資本論』は、決して読みやすい本ではない。岩波文庫第一分冊では目次と序文だけで60頁もある。そこには〈学問には坦々たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。〉というような、読者の意欲を失わせるようなことが書いてある。

 しかし、資本論は、マルクスが展開する議論の筋道を追って読んでいくと、必ず理解できる。

 さて、『資本論』が難解な書とされているのにはいくつかの理由がある。第一は文体だ。『資本論』は全3巻の構成だが、マルクス自身の手によって出版されたのは第1巻だけだ。第2、3巻は、マルクスの盟友でパトロンのエンゲルスが編集している。第1巻の文体には、哲学書のような癖がある。また、他人の見解を引用して、それにコメントをつけるという作業を何度も繰り返している。この文体は、ユダヤ教のタルムード(口伝で伝えられた律法とその解釈)研究に似ている。これに対して、エンゲルスが編集している残り2巻は、役所の報告文書のような、わかりやすいが無味乾燥な文体だ。文体は思想を表す。思想が変化するとそれが文体に現れる。ソ連型マルクス主義が正統派の座を占めていたときは、マルクスとエンゲルスは一体の思想を持っていたと信じられていたが、現在の研究では、両者の思想には無視できない差異があったことが明らかにされている。エンゲルスは、第2巻序文で、〈私は、原稿を能うかぎり言葉どおりに再現し、文体については、マルクス自身でも改めたであろうと思われる点だけを改め、(中略)解釈にいささかでも疑問の残った文章は、むしろ全く言葉どおりに印刷されてある。〉と述べているが、マルクスが残した草稿と比較すると地代論をはじめとする重要な部分で、両人の解釈にはかなり違いがある。

『資本論』が難しいのは、マルクスに学者であり革命家であるという二つの魂があるからだ。

 第一の学者としての魂でマルクスは、資本主義という対象を徹頭徹尾論理的に理解しようとする。資本主義社会で、人々は欲望を商品を購入することによって満たす。貨幣を媒介にしないと商品は円滑な交換ができないので、商品は必ず貨幣を生み出す。貨幣を商売、金貸し、産業によって増やそうとする動きが資本だ。商品は、貨幣、資本と切り離すことができない。ただし、人間の生活が商品を基礎に行われるようになったのは、近代資本主義が成立してからだ。ここで鍵になるのが労働力の商品化だ。近代の労働者は、中世の農民と違って移動の自由を持つ。同時に、土地や道具、機械などの生産手段からも自由(持っていないということ)だ。マルクスはこれを「二重の自由」と言った。この「二重の自由」な状態にある労働者が持っている商品は、労働力だけだ。コンビニの時給が900円だとすると、店主はアルバイトを雇うことにより、1時間あたり900円より多くの利益を得る。仮に1200円の利益を得るとするとその差額の300円が剰余価値だ。労働者側から見ると300円が搾取されていることになる。

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source : 文藝春秋 2015年3月号

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