歴史を動かす主体は何か『歴史哲学講義』ヘーゲル

ベストセラーで読む日本の近現代史 第19回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770〜1831年)は、ドイツの古典哲学を集大成した哲学者だ。ヘーゲルの哲学は、マルクス、キエルケゴールなどだけでなく、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」という発想にも強い影響を与えた。ヘーゲルのテキストは難解だという評価が定着しているが、叙述に癖があるだけで、思想は決して難しくない。特に講義録である『歴史哲学講義』は、わかりやすい。ヘーゲルのドイツ語原文と比較して、日本語訳が難しいこともある。例えば、人倫という言葉が出て来ても、その意味がよくわからない。ただし、長谷川宏氏の訳文には人倫という言葉は出てこない。文脈に従って、家族、教会、学校、国家などと訳し分けているからだ。『精神現象学』『歴史哲学講義』などは、長谷川宏氏の新訳によって新たな読者が増えている。

 

 ヘーゲルにおいて、歴史を動かす主体は絶対精神だ。絶対精神が国家を通じて歴史を動かす。ただし、ヘーゲルは、歴史的個人である英雄の役割を重視する。

〈このように、世界史的個人は世界精神の事業遂行者たる使命を帯びていますが、かれらの運命に目をむけると、それはけっしてしあわせなものとはいえない。かれらはおだやかな満足を得ることがなく、生涯が労働と辛苦のつらなりであり、内面は情熱が吹きあれている。目的が実現されると、豆の莢(さや)にすぎないかれらは地面におちてしまう。アレクサンダー大王は早死にしたし、カエサルは殺されたし、ナポレオンはセント・へレナ島へ移送された。歴史的人物が幸福とよべるような境遇にはなく、幸福は、種々様々な外的条件のもとになりたつ私生活にしか約束されない、というのはぞっとするような歴史の事実ですが、その事実になぐさめられる人もいるかもしれません。が、そんななぐさめを必要とするのは、立派な偉業を見て不愉快に思い、なんとかそれを小さく見せようと粗(あら)さがしをする嫉妬ぶかい人だけです。いまでもそんな人はいて、王座にある君主はしあわせではない、と考え、だから自分はよろこんで君主に王座をあたえるし、自分が王座にすわらなくても平気でいられる、といったことをしたり顔で口にしたりしている。が、自由な人間というものは嫉妬心などもたず、高貴な偉業をすすんでみとめ、それが存在する(、、、、)ことによろこびを感じるものです。〉

従僕の目に英雄なし

 こういう英雄は、歴史において誤解される。〈かれの行動は名誉欲や征服欲にもとづくもの〉と見られるからだ。さらに英雄を身近なところで知っている凡庸な人間が、自分の甲羅に合わせて心理的考察を行うからだ。そのため、英雄が俗物のように見えてしまうことをヘーゲルは嘆いてこう述べる。〈こうした心理家たちはまた、歴史的大人物の私生活にまつわる特殊な事実に、強い執着を見せます。人間は食べたり飲んだりしなければならず、友人知人とつきあい、刹那的な感情や興奮にかられます。「従僕の目に英雄なし」とはよく知られたことわざですが、わたしはかつて、「それは英雄が英雄でないからではなく、従僕が従僕だからだ」と補足したことがある(ゲーテが十年後におなじことばをくりかえしましたが)。従僕というのは、英雄の長靴をぬがせ、ベッドにつれていき、また、かれがシャンパン好きなのを知っている男のことです。歴史的人物も、従僕根性の心理家の手にかかるとすくわれない。どんな人物も平均的な人間にされてしまい、ことこまかな人間通たる従僕と同列か、それ以下の道徳しかもたない人間になってしまう。〉

 政治家に関するスキャンダル本で、感動的なものが少ないのは、従僕根性のひねくれた視座から書かれているので、その政治家の全体像が伝わってこないからだ。

 それにしても世界史的個人は、滅私奉公で、私生活は不幸で、業績は評価されずに悪口ばかり書かれる。ヘーゲルは、それについてはあきらめるしかないと達観して、こう述べる。

〈世界史的個人は冷静に意思をかため、広く配慮をめぐらすのではなく、ひたむきに一つの(、、、)目的にむかって突進します。だから、自分に関係のない事柄は、偉大な、いや、神聖な事柄でさえ、軽々にあつかうこともあって、むろんそのふるまいは道徳的に非難されてしかるべきものです。が、偉大な人物が多くの無垢な花々を踏みにじり、行く手に横たわる多くのものを踏みつぶすのは、しかたのないことです。

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source : 文藝春秋 2015年4月号

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