外国語習得の古典的名著『外国語上達法』千野栄一

ベストセラーで読む日本の近現代史 第20回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 外国語学習法に関する本は、それこそ数え切れないほどある。筆者は、中学生の頃、種田輝豊『20カ国語ペラペラ』(実業之日本社)を読んで、いつか外国語を使う職業に就きたいと思った。外国語学習法に関する本をどれだけ多く読んでも、実際に外国語と格闘しなければ、語学を身につけることはできない。実は、大人になってからの外国語習得には、「定石」がある。この定石について記した国際的に定評のある外国語学習法に関する本を一冊だけあげよと言われれば、筆者は躊躇することなく、ロンブ・カトー(米原万里訳)『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫)をあげる。ロンブ・カトーは、ハンガリー人の言語学者だが、本書はロシア語からの重訳だ。作家でロシア語会議通訳の第一人者であった米原万里氏が、無名時代に本書をロシア語で読んで「是非、日本の読者に伝えたい」と思って訳したものだ。筆者は米原氏と本書の長短について論じたが、スラブ語やゲルマン語の知識が全くない人にとって、この本の実用的価値は落ちるというのが結論だった。外国語学習法は、学習者と母語を共通にする言語学者が書いたものが最も実用的であるというのが米原氏と筆者の結論だった。

 

 その観点からすると、千野栄一『外国語上達法』(岩波新書)は、日本語を母語とする読者が外国語を習得する際の定石について記した古典的名著だ。結論を先に述べると、外国語習得のために必要とされるのは「お金と時間」、勉強法の要諦は、「語彙と文法」を暗記することだ。

語学の神様の教え

〈こんな神様のような先生なので、折にふれてこの先生から語学上達の秘訣を私が聴きだそうとしたとしても不思議ではないであろう。それに、この先生が狂気の語学の天才ならば、自分たちとは違うカテゴリーの人だととっくの昔にあきらめるが、先生は円満な人格と輝くばかりの教養を備えられた常識人で、才能の違いは重々承知のうえでも、この先生についていけばなんとか自分もできるようになるという気にさせる魅力を持っておられる方である。そのS先生に伺ったのであるから、外国語上達についてのヒントは読者の方も私と同じように信じていただく以外にはない。

「先生、語学が上達するのに必要なものはなんでしょうか」

「それは二つ、お金と時間」

 このラコニア風(laconic)に短い解答に目をパチクリしている私に先生が説明して下さったところによると、語学の上達には、まずお金をかけなければだめであるということであった。先生ご自身もあるロシア夫人に月謝を貢(みつ)いでロシア語を習得されたそうである。人間はそもそもケチであるので、お金を払うとそれをむだにすまいという気がおこり、その時間がむだにならないようにと予習・復習をするというのである。

 外国人に日本語を教え、そのかわりにその外国語を学ぶというのはよく聞くが、そうやって外国語に上達した人に会ったことがないのは、お金を使っていないからであろう。大学のとき第二外国語その他でいくらでもいい先生に習えるのに上達せず、社会に出て仕事のあとお金を払って習いにいくと上達するのは、前に述べた目的意識のはっきりしていることと共に、お金を払うからにほかならない。〉

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source : 文藝春秋 2015年5月号

genre : ニュース 社会 読書