名越健郎『ゾルゲ事件80年目の真実』

第12回

平山 周吉 雑文家
エンタメ ロシア 読書 歴史

驚異の人脈を築いた人間的魅力

 プーチン大統領の憧れのスパイは、リヒャルト・ゾルゲだった。戦前の日本で8年間の諜報活動を行ない、数々の最高機密をソ連に送ったゾルゲは、ロシアの世論調査ではいまも一番有名なスパイだという。元KGBのプーチンは第4位と後塵を拝している。

 ゾルゲと協力者の尾崎秀実が処刑されてから80年がたつ。本書は、新事実がいまだに次々と明らかにされる事件の全貌を伝えてくれる。こんなに情報が大量に公開されるスパイ事件は珍しいのだそうだ。

名越健郎『ゾルゲ事件80年目の真実』(文春新書)1210円(税込)

 巻末の参考文献を眺めて驚くのは、かつては基本書とされていた尾崎秀樹(尾崎秀実の弟)の『ゾルゲ事件』がないことだ。最初期の中公新書を代表する一冊だと思うが、数十年の間に、ゾルゲ事件への見方は激変している。

 ゾルゲは上海勤務の間に朝日新聞特派員の尾崎秀実と知り合う。尾崎は後に近衛文麿内閣の中核に入り込むのだから、これ以上の同志はいない。宋慶齢(孫文の未亡人)を有力な情報源とし、アグネス・スメドレーとは肉体関係を結ぶ同志となる。同性異性に関係なく、派手な人間関係とネットワークが築かれる。上海での助手兼愛人(暗号名「ソーニャ」)はイギリスに移住した後、米英の原爆研究の極秘情報を掴む。戦後の冷戦に大きく関わる成果を挙げた。ゾルゲの感化力、恐るべしだ。

 日本に来ても、トップシークレットである御前会議の決定を、8日後にはソ連に送っていた。尾崎の協力があったからだ。ドイツ紙の特派員という肩書で活動し、オット大使から信頼され、ドイツ大使館内に一室を与えられる。ゾルゲは大使の夫人とも女性秘書ともぬけぬけと関係を持った。「現地妻」石井花子が『人間ゾルゲ』を書いて死後も慕ったように、特異な人間力があったのだろう。

 ゾルゲの活動の時期は、スターリンの粛清の嵐と重なる。ゾルゲには帰国命令が出ていたが、命令を無視した。帰国すれば粛清される可能性が大だった。「コミンテルンの女王」といわれ、東京でも活動したクーシネンは、ゾルゲの勘の鋭さを回想録に記した。

 それでもゾルゲの活動は未然に防ぎ得た。第二次上海事変の時期、日本は上海の共同租界の警察権を確保した。英警察の文書には、ゾルゲが監視対象人物だったことが記録されていた。その文書を日本側がチェックしていれば、ゾルゲの身元は昭和12年(1937)の時点で簡単に割れていた。「スパイ天国」日本は、今に始まったことではない。

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source : 文藝春秋 2025年2月号

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