25歳での即位以来、激動の20世紀の日本とともにあった昭和天皇(1901〜1989)。戦後に皇籍離脱した長女・東久邇成子さんの次男で、現在は森ビル特別顧問・山階鳥類研究所理事長の壬生基博氏が、祖父として接した昭和天皇の姿を明かす。
私は成人するまで、昭和天皇の孫であることを強く意識したことがありませんでした。もちろん自覚がなかったわけではありませんが、「祖父と孫」という自然な関係でした。
昭和天皇は戦前非常に難しい時代を経験され、戦後の復興に尽力された。大きな変化の時代を国民とともに経験された姿が、多くの人の目に焼き付いていると思います。しかし私の記憶にあるのは、いつもニコニコしていて家族思いの祖父としての姿です。
毎年12月6日の母の誕生日には、麻布永坂の我が家に、両陛下、皇太子ご夫妻(現上皇上皇后両陛下)をはじめ、母の兄弟がみな勢揃いして、誕生日パーティーが催されていました。母が手料理でお迎えするため、数日前から家族は準備で大忙しでした。陛下はお付きの方からも解放された家族だけの時間を過ごされ、大変楽しそうにされていました。陛下にお目に掛かると「学校はおもしろいかい」などと尋ねられ、お答えすると、いつも笑顔で「あっそう。よかったね」と答えてくださる。怒られた記憶もありません。
そんな陛下の優しさを強く感じたのは、私が母を亡くした時です。母は昭和36年7月、私が12歳の誕生日を迎える直前に、35歳の若さで亡くなりました。国立病院に入院、手術し、その後、自宅療養中だった母は、末期の癌でしたので陛下の思し召しで、宮内庁病院に入院させていただきました。皇后陛下はほぼ毎日、陛下も頻繁に見舞われたようです。当時の私は、毎週土曜日の学校帰りに宮内庁病院に立ち寄りました。病室には皇后陛下からいただいたお庭の花が飾られていて、陛下が準備してくださったサンドウィッチを母と一緒に食べるのが常でした。
母が亡くなった日には、両陛下、皇太子様はじめ、皇族方も一堂に集まりました。そして、水を浸した綿棒で母の唇を順番に湿らせ、臨終を迎えました。母が息を引き取ったとき、陛下は「どうもありがとう」と、ぽつりとおっしゃった。誰に対して言われた言葉なのか分かりません。ただ、その一言が、私の記憶に強く焼き付いています。
幼少の頃は、夏になると、母とともに葉山御用邸に隣接した付属邸や御用邸内の富士見亭で過ごしました。滞在中は、朝早く起きて夏休みの宿題を片付け、その後は両陛下が生活する本邸の居間にあるピアノを拝借して練習したり、海で泳いだりしました。
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