今回は、私にも答えようがない「難問」について書く。それは、今のヨーロッパをゆり動かしている、そしていずれは日本も無縁ではいられない時が来るにちがいない、「難民」の問題である。
歴史に親しむ歳月が重なるにつれて確信するようになったのは、人間の文明度を計る規準は二つあり、それは、人命の犠牲に対する敏感度と、衛生に対する敏感度、であるということだった。
と同時にわかったのは、この敏感度が低い個人や民族や国民のほうが強く、負けるのは文明度の高い側で、勝つのは常に低い側、ということである。
この問題を考えるようになったのは『ローマ人の物語』の第十一巻を執筆していた頃で、その時期の私は、ウィーンとブダペストの間のドナウ河一帯をうろつきまわっていた。あの一帯がローマ帝国の安全保障の最前線であったからだが、なぜ最前線になってしまったのかと言うと、あの一帯が北方からの蛮族の侵入路になっていたからである。
ただし、ウィーンやブダペストにいては、二千年昔のドナウ河を想像することはできない。人が多く住むようになると、河幅までが狭くなるのだ。それでウィーンとブダペストの間にある田園地帯まで遠出して、そこの河岸に座って対岸を、あの時代のローマ人になったつもりで眺めたのだった。
ドナウは大河だが、場所によっては流れは速い。その対岸の森の中から現われた蛮族の大群が、にわか造りのいかだに女子供から家畜まで乗せて渡ってくる。転覆して溺死する者も多かったにちがいない。それでも蛮族はひるむことなく、いつ果てるかと思うくらいに、ローマ帝国領目指して次々と押し寄せてくる。
ウィーンもブダペストも、今ではオーストリアの首都でありハンガリーの首都だが、ローマ帝国が軍事基地を置いたのがもともとの起源。ローマ人は軍事基地でも民間人を加えて都市化するのが常であったので、帝国の辺境地帯と言っても人は多く住んでいたのである。
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source : 文藝春秋 2016年9月号