テロリズム思想の変遷を学ぶ『テロルの決算』沢木耕太郎

ベストセラーで読む日本の近現代史 第38回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 100年後も読み続けられることになるノンフィクションの古典だ。書き出しから読者が作品の世界に引き込まれていく。

〈人間機関車と呼ばれ、演説百姓とも囃されたひとりの政治家が、一本の短刀によってその命を奪われた。/それは、立会演説会における演説の最中という、公衆の面前での一瞬の出来事であった。/凶器は鎌倉時代の刀匠「来国俊(らいくにとし)」を模した贋作だったが、短刀というより脇差といった方がふさわしい実質を備えていた。全長一尺六寸、刃渡一尺一寸、幅八分。鍔はなく、白木の鞘に収められていた。/その日、昭和三十五年十月十二日、日比谷公会堂の演壇に立った浅沼稲次郎には、機関車になぞらえられるいつもの覇気がなかった。右翼の野次を圧する声量がなかった。右翼の妨害に立往生する浅沼の顔からは、深い疲労だけが滲み出ていた。委員長になって以来、さらに激しくなった政治行脚を、もうその肉体は支え切れなくなっているのかもしれなかった。しばらくの中断の後、浅沼は再び演説を始めた。/「……選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると」/そこで声を励まし、さらに、/「どんな無茶なことでも……」/と語りかけようとした時、右側通路からひとりの少年が駆け上がった。/両手に短刀を握り、激しい足音を響かせながら、そのまま浅沼に向かって体当たりを喰らわせた。/浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝し気な表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した。/少年はさらに第二撃を加えたが、切先が狂い左胸に浅く刺さったにすぎないと察知すると、第三の攻撃を加えるべく短刀を水平に構えた。/浅沼は驚きだけを表わした顔を少年に向け、両手を前に泳がせた。そして、四歩、五歩よろめくと、舞台に倒れた。〉

 17歳の右翼少年・山口二矢(おとや)に社会党委員長の浅沼稲次郎が殺害された瞬間がリアルに描かれている。山口は現行犯逮捕され、警察の取り調べを受けた後、練馬の少年鑑別所に送られる。そこでシーツを引き裂いて縊死する。山口は、大義のために自分の命を捨てる覚悟が出来ていた。それだから、他人の命を躊躇せずに奪うことができたのだ。

 

 人間は観念を持つ動物だ。どの時代にも過剰な観念を抱き、それに殉じる人たちがいる。この観念が、人々に受け入れられ、政治的に勝利するならば、観念に殉じた人は英雄として顕彰される。政治的に破れた場合は、テロリストとして断罪される。このような政治的断罪を沢木耕太郎氏は拒否する。そして、具体的な接触は数十秒しかなかった山口と浅沼の生涯をたどることによって、観念に取り憑かれた人々の魅力と悲喜劇を浮き彫りにすることに成功した。

山口二矢と同じ信念

 ここで私事について語ることをお許し願いたい。筆者が、刊行された直後の『テロルの決算』を読んだのは、大学受験浪人中の1978年9月のことだった。筆者は、高校2年生のときに社会党系の青年組織・社青同(日本社会主義青年同盟)に加わり、社会党埼玉県本部に月に2、3回、出入りしていた。社会党に対して強いシンパシーを持つ筆者は、浅沼委員長刺殺事件は右翼のゴロツキによるテロで、山口などに思想はないと思っていた。しかし、『テロルの決算』を読んで戦慄した。日本の現状に対する危機感、思想と行動を一致させなくてはいけないという山口と同じ信念を筆者が抱いていることに気づいたからだ。政治の世界にのめり込むと、とんでもないことをしでかしかねない自分に気づいた。この本を読んだことも、筆者が政治よりもキリスト教神学の道に進もうとする動因になった。

 本書の行間から、当初、山口の軌跡を中心に作品を作ろうとしていた沢木氏の関心が、徐々に浅沼に移っていくことが感じられる。庶子に生まれたコンプレックスを封印し、激しい弾圧には耐えぬくが、2度も精神に変調を来した浅沼は、政治の世界に生きるには線が細かったのであろう。社会党右派である浅沼が、1959年3月に社会党訪中使節団団長として北京を訪問したときに〈「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならないと思います」〉というエキセントリックな演説をしたのも、浅沼の信念に基づくというよりも、北朝鮮から中国に来ていた黄方秀という朝鮮人の入れ知恵だった。浅沼がこの工作に乗ってしまったのは、社会主義者でありながら戦争に協力してしまったという自責の念からであろう。

〈「私が一番悩んだのは、戦争中は戦争に反対であったが、いやおうなしに、戦争の中に引き込まれた、その矛盾に非常に悩みました。それから戦争が済んでですね、何といっても軍国的な生活を送ってきた者が、全然新しい社会に立つんですから、この煩悶がまた、人間的にずいぶんありましたね。しかし、人間としてですね、悩みを持ちつつ生きるということは尊いものだと私は思っています。悩みがない人間というのは、ウソなんじゃないでしょうか。生き方にウソがあるんじゃないでしょうか」〉

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source : 文藝春秋 2016年11月号

genre : ニュース 社会 読書