10月13日に、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。授賞理由は、「米国の楽曲の偉大な伝統の中で新たな詩の表現を創造してきた」とのことだ。ボブ・ディランよりもビートルズの方が世界的規模で「新たな詩の表現を創造してきた」と思うが、ビートルズがこの賞を受賞しなかった理由がよくわからない。筆者は、ノーベル文学賞に対する関心をほとんどなくしている。それは2015年にベラルーシの雑文家スベトラーナ・アレクシエービッチがノーベル文学賞を受賞したからだ。彼女の文章は、モスクワの日本大使館に勤務しているときから読んできた。彼女のチェルノブイリ原発事故、アフガニスタン戦争に関するノンフィクションは読み物として面白い。ただし、作品の作り方は、特定の政治的立場を前提として都合のよい事実をパッチワークしていくというスタイルだ。ソ連には、体制派にも反体制派にもこの類の作家がたくさんいた。アレクシエービッチにノーベル文学賞を与えたのは、彼女がロシアのプーチン大統領に批判的であるという政治的要因が大きかったと思う。ロシア語圏にはソローキン、アクーニンをはじめ、彼女よりも面白い作品を書く作家は沢山いる。ロシア語圏の作家に関してノーベル文学賞の選考基準はかなり政治的だ。
日本人は、そろそろノーベル文学賞騒動から卒業すべきと思う。特にこういう政治的な文学賞で、村上春樹氏を煩わせるのはもうやめてほしい。よい読者に恵まれていることが、ノーベル賞などという政治色が強い文学賞を受賞するよりもずっと重要だ。村上氏は世界的規模でよい読者を獲得している。
ところで、4年前のニュースでだが、安部公房がノーベル文学賞受賞寸前だったことが明らかになった。
〈ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーのノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長(78)が(二〇一二年三月)21日午前(日本時間同日夕)、読売新聞の取材に応じ、1993年に死去した作家・安部公房が同賞の受賞寸前だったことを明らかにした。/ストックホルム市内の自宅でインタビューに応じたベストベリー委員長は、安部公房について「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と強調した。/さらに、「三島由紀夫は、それ(安部)ほど高い位置まで近づいていなかった。井上靖が、非常に真剣に討論されていた」などと他の日本人作家についても語った。〉(2012年3月23日『讀賣新聞』)
この話は筆者の皮膚感覚とも合致する。筆者は、1991年12月のソ連崩壊をはさんで、1987年8月から95年3月までモスクワの日本大使館に勤務していた。ロシアの知識人との会話では安部公房の話題がよくでた。ロシア科学アカデミー民族学人類学研究所のセルゲイ・アルチューノフ博士は、日本語を含む7カ国語(ロシア語、英語、ドイツ語、フランス語、アルメニア語、グルジア語)で論文を書き、講演ができ、読むだけならば40カ国語に通暁する「歩く百科事典」と呼ばれている人物だが、「ロシア語圏で知識人と呼ばれる条件に安部公房の小説を読んでいることが含まれる」と言っていた。そこで、筆者は、闇市場で安部公房の『砂の女』を手に入れたが、当時のソ連人大学教授の1カ月の給与が吹っ飛ぶ値段だった。知識人だけでなく一般大衆もこの作品を愛していたからだ。
アマルガムのような構成
ソ連の公式の文芸批評では、『砂の女』はブルジョア社会の閉塞した状況を描いた傑作で、このような矛盾が克服された発達した社会主義社会(ソ連のこと)の優位性が示されたというような解釈をしたのであろう。しかし、ソ連に住むロシア人とそれ以外の民族の知識人は、この作品に描かれた、外部にいくら出たいともがいても出ることができず、最後には大勢に順応してしまう「蟻地獄」のような状況に陥った主人公をソ連社会の知識人の姿に重ねて読んだのだと思う。一般大衆は、当時ソ連では性表現が厳しく制限されていたが、外国文学については「文学性の尊重」という観点から検閲基準が緩められていたので、エロ小説として読んでいたのだと思う。
新潮文庫版の解説を書いたドナルド・キーン氏によると、1962年6月に書き下ろし小説『砂の女』が上梓された機会に、それまで一般の読者にあまり馴染みのなかった前衛作家・安部公房は、一躍有名になったという。筋書き自体は単純だ。8月のある日、休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に、昆虫採集のために出かけた31歳の教師・仁木順平が、失踪してしまう。順平は、蟻地獄のような、砂丘の中にある円錐形の穴の底の未亡人が1人で住む家に幽閉され、砂を掻き出す労働を強要される。逃亡を何度も図るが、女との官能的な生活に溺れるうちに環境に順応し、逃亡への意思を失う。裁判所は順平の失踪を宣告する。
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source : 文藝春秋 2016年12月号