友情の深層に迫るすがすがしい傑作『対岸の彼女』角田光代

ベストセラーで読む日本の近現代史 第37回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 人間の友情の深層に迫った傑作だ。第132回直木賞(2004年後半期)を受賞した。選考委員の平岩弓枝氏は、「自由奔放に行きつ戻りつしているようで緻密に計算されている構成のおかげで作品の流れがよどむことはない。こけおどしの作為もないし、豊富な資料を使った重厚さもない代りに、登場人物の一人一人の表情がはっきり見え、その背景の現代に正確なスポットライトが当っている。受賞作にふさわしいと思った」と述べているが、その通りと思う。作家にとって重要なのは、自分が考えている事柄をどれだけ文字で表現できるかということだ。評者など4割くらいしかできないが、角田氏は9割以上できていると思う。このあたりが作家の腕なのだ。角田作品は面白いが、同時に表現法や構成から学ぶことが多いので、筆者はときどき角田氏の小説を原稿用紙に写し、文体や構成の研究をしている。

 

 前置きはこれくらいにして、『対岸の彼女』の世界への旅を始めたい。

 横浜で生まれ育った楢橋葵は中学校に入ると陰湿ないじめに遭うようになった。〈教科書がなくなり、上履きがなくなり、体操服がなくなり、クラス全員に公然と無視され、しまいに葵の机と椅子だけ、いつも教室の外に出されるようになった。〉

 中学2年生の3学期から葵は不登校になる。葵は母親の実家がある群馬県の女子高を受けて合格し、家族は群馬県の〈スーパーもデパートもない〉ような町に引っ越す。

 入学式で葵は野口魚子(ななこ)という小柄な少女と知り合う。この少女とは波長が合い、急速に近づき親友となる。高校にも生徒のグループがいくつかできた。葵は再びいじめに遭うのが怖いので、目立たない生徒たちのグループに入る。魚子はどのグループにも入らない。葵はいずれ魚子がいじめの対象になると予感し、学校では一切口をきかず、放課後に遊ぶことにする。2人が好きなのは、他の人が来ない河川敷だった。また、毎日のように2人は長電話をし、手紙を交換する。葵の予感はあたり、魚子はいじめの対象になる。それは極めて陰湿だ。〈ナナコにむけられた中傷を、葵もずいぶん耳にした。八方美人のコウモリ女というところからはじまって、父親はアル中で入院中、母親は売春を内職にしているホステスで、妹は万引き常習犯のヤンキー、親子四人で二間しかない県営住宅に住んでいて、ナナコが摘んだ道ばたの雑草が毎日の夕食らしい〉という。しかし魚子は平静だ。「そんなとこにあたしの大切なものはない」というのが彼女の口癖だ。ある日、葵は執拗に魚子の家を見たいという。最初は渋っていたが、魚子は連れて行く。二間しかない県営住宅ではなく、三間の公団住宅だった。家の中は殺風景で人が生活している気配がない。派手な格好をした魚子の妹のグループが入ってきた。噂通りではないだろうが、魚子の家庭に問題があることは確かなようだ。

屋上から飛び降りる二人

 ちなみに、角田氏の優れた文章術は「書きすぎない」ことだ。角田氏の頭の中には、魚子の両親がどのような状態にあるか、この家庭が深刻な問題を抱えていることについて具体的に書かれている。それを読者に伝えることをあえて差し控え、想像の余地を拡大している。

 2年生の夏休みに葵と魚子は伊豆のペンションでアルバイトをする。アルバイト期間が終わり、給料を受け取り、伊豆急の駅から電車に乗ろうとしたところで魚子は帰りたくないと言う。葵は魚子とならばどこにでも行けると思い2人で安宿やラブホテルを泊まり歩き、横浜では小学生時代に葵をいじめた相手からカネ(7000円)を脅し取る。脅し取った直後、2人は葵がかつて住んでいたマンションの屋上から飛び降りる。幸い2人は打撲傷を負っただけで生き残る。葵は横浜の病院に2週間入院した後、群馬の自宅に戻った。〈家にいるあいだ、何が起きているのか徐々に葵は理解した。家のまわりをうろついている知らない男や女がマスコミの取材陣だということ。ナナコも自分と同様軽傷で、べつの病院に運ばれたこと。気配を消して二階を歩き、家捜(やさが)しした両親の部屋で、数冊の雑誌も見つけることができた。(中略)飛び降りたのち、葵が克明につけていた日々の記録が見つかった。女子高生二人が泊まり歩いていたのがラブホテルだったことで、世のなかは単純に、葵とナナコは恋愛関係にあったと思ったようだった。あるいはそうしたほうが盛り上がるんだろう。最初から駆け落ちをするつもりで伊豆にアルバイトにいき、ラブホテルで愛し合い、ディスコに通い詰め、許されない愛に悩んで心中を決意したという安っぽいストーリーに仕上がっていた。葵にはすべて他人事に思えた。本当のことなど何ひとつそこにはなかったから。〉

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source : 文藝春秋 2016年10月号

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