気鋭の映画監督による小説集
映画『シークレット・サンシャイン』を見て以来、私はイ・チャンドン監督作品に強く惹かれ、ずっと見続けている。何に惹かれているのかといえば、時代と時代に付随するできごと、個人に起きたできごと、人との関係性、それらの緻密な描写、そのなかで生きる人間のありようを、まっすぐ、何もごまかさずに描こうとする姿勢だと思う。その真摯さに、心揺さぶられるだけではなく、ときに目を背けたくなるし、ときに戦慄させられる。
この小説集は韓国で1992年に刊行されている。
本書には、5つの小説がおさめられている。5作とも、朝鮮戦争、南北分断、独裁政治と民主化運動、経済発展と、90年代初頭までの韓国の、実際の時代状況が描かれている。小説に登場するのは、強い思想や政治的野心を持たず、貧しい暮らしを余儀なくされている人たちだ。ごくふつうに貧しさを厭い、かといって分不相応に華美な生活を夢見たりせず、ただのまっとうな暮らしを望み、極端な思想を持つわけでもなく、北側のスパイでもアカでもない人たち。
イ・チャンドンは、そのごくふつうの人たちのありようを、映画とまったく同じく、ときに滑稽に、ときに残酷に、ときに痛みを感じるくらいむき出しにして、描き出す。読んでいると光景がリアルに浮かび、印象的な場面を光景として覚えてしまうのは、映像作家の才能がすでにあらわれているからだろう。たとえば表題作の、「鹿川」という町の、大規模再開発のまっただなかの暗闇と、小川の向こう側の、新築マンションの明かり。まあたらしい水槽と金魚の入ったポリ袋を手に、そのなかの一室を目指す男。おでんとキンパプを売る彼の母の、市場での思い出などは、この目で見たかのような強烈さで脳裏にこびりついて離れない。
歴史があるから人がいるのではなく、思想のなかで人は生きているのでもない。今を生きる人たちが、のちに歴史と名づけられる状況を作り、今にしがみつく人たちが、思想で人を右だ左だと判断し、断罪しようとする。登場人物たちの多くは時代と思想の隙間にいる。表題作で、思想を持たない夫を妻はなじり、幸せとは何かと夫に問われて「人間らしく生きること」だと答えるが、私には、この夫こそがもっとも人間らしく思える。韓国社会のたどってきた複雑で異様な状況を経験していなくても、私はこの夫の姿を通して、隙間にいることしかできない、どうしようもない人間味に共感してしまう。
生きることはこれほどにもままならないが、しかし、「星あかり」のラストの、神々しいほどのまばゆさ、しずかな強さ、世界からの祝福のような一瞬は、私たちのだれもが得ることのできるものだと思う。
映画のごとく忘れられない作品群だ。
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source : 文藝春秋 2023年11月号