平野啓一郎「三島由紀夫論」

文藝春秋BOOK倶楽部

角幡 唯介 ノンフィクション作家・探検家
エンタメ 読書

より明晰な三島像へ近づく

 三島文学の魅力は作品と実人生がごちゃまぜになっているところにある。とくに最期が自刃という衝撃的なものだけになおさらだ。私は昔から彼にある種の怖さ、近寄り難さをおぼえていたが、それはあの死に方のためだ。でもそれゆえに45歳という彼の享年が近づくほど私は熱心な読者となってゆき、彼の生き方に思いを馳せた。そしてその年齢を超えたとき、三島は死んだけど俺は死ななかったなぁと少しだけ虚しくなり、それは三島より生き方が不十分だったせいではないか、などと考えた。

 人生がひとつの作品なら三島は文学同様、真面目にその質を高めようと努力して死んだ。だから彼の覚悟は胸に突き刺さるのだが、そんな作家は私には三島しかいない。

 三島文学は死を通じて読者を作品に巻き込む。複雑な人格や生き方への葛藤が、観念的な思考や絢爛豪華な美文とからみあい、難解な作品はいっそう謎めき、独特な光芒はそのきらびやかさを増す。文学の使命に人間のわからなさの表現があるのなら、三島は作品と生き方の両面から、それに最も成功した作家のひとりだろう。読者は彼のことがわからないからこそ何度も読むし、読むたびに少しわかった気になる。わからなかったことが腑に落ちると人はそれを誰かに話したくなるものだ。学者や評論家がこぞって三島のことを書きたがるのはそのためである。

平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)3740円(税込)

 世にあまたある三島本を私もそれなりに読んできたが、でも平野氏のこの本はちょっと一線を画す作品だった。ほとんどの三島本が決定的なところにはとどいていないと感じるのに、本書はそれに成功している。その理由は解釈の根拠をテキストに限定した読解姿勢にあるのだろう。生と死が影絵となって絡みつく三島文学は、読者もつい自分の経験を投影して読みがちだが、氏はそのような独りよがりな読解をゆるさない。自身の世界観、人生観だけでなく、三島の行動面の事実経過さえ極力省き、テキストだけを慎重に取り出し、独立させ、こんな科学的な態度で文学を語れるのか……と驚くほど客観的、実証的に論をつみあげる。読み落としそうな細かな言葉や表現を丹念に掬いあげ、有機的につなぎあわせることで、各作品の細部の意味が解き明かされ、三島の言葉に新たな命が吹きこまれてゆく。

 そこからうかびあがるのは、まさに三島由紀夫だ。セクシュアリティや肉体的劣等感に悩み、戦争に参加できなかったことで世代の苦しみを背負いこみ、戦後社会で生きようと決意したけれどもはたせず、最後まで認識と行為の溝をうめることのできなかった1人の人間の矛盾した姿がある。存在論を書きたかったという氏の言葉通り、三島とはこのような人物だったのだろうと思われる、それは三島由紀夫なのである。

 本書の三島像は新鮮で、不思議なほど生き生きとしており、そして物悲しいが、それをテキストだけから純粋濾過させたところに平野氏の言葉への信頼があるし、作家としての決意が滲み出ていると感じた。

 その一方で解釈に説得力がありすぎるゆえに、大学入試の模範解答を見たような気持ちにもなった。はっと目を見開かされるのと同時に、三島の魅力であったわからなさと、それまでの読書で構築されていた三島像が次第にうすまってゆく。それは新たにたちあがった、より明晰な三島像へのたじろぎなのだろうか。これまでと違う観点から三島作品を再読するのが楽しみなような、怖いような、そんな読後感だ。

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source : 文藝春秋 2023年11月号

genre : エンタメ 読書