今回は、中学生の頃から私の読者という大学生からの質問への答えから始めたい。彼は言う。現代は大衆民主政の時代です。でも塩野さんはこれまでずっと、大衆民主政には合わないタイプの男たちを書いてきました。ということは、この男たちは今ならば、選挙に訴えれば落選するしかない政治家であった、ということになるのでしょうか。これ以降は、私の彼への答え。
これまで書いてきた男たちの中で、二人だけ例に引くことにします。古代のギリシアのアテネの人ペリクレスとローマ時代の人ユリウス・カエサル。二人とも小林秀雄によれば、「『英雄伝』の英雄達もみな政治家なのである」となる。そして、私の結論も先に言いましょう。この二人とも、大衆民主政の今でも絶対に当選していたし、首相になっていただろう、と。なぜ? この二人ともが最も重要な勝負を、言葉に賭けたからです。戦争はしないでこれたペリクレスも、最後の最後でペロポネソス戦争に入ってしまう。その最初の年に為された彼の演説を、『ギリシア人の物語』で訳していたときに頭に浮んできたのは、二千五百年も後に為された、ゲティスバーグでのリンカーンの有名な演説でした。二つの演説とも、戦没者追悼のための演説では共通している。つまり、あとに残された人々に、戦闘で死んだ兵士たちは、どのような国を守るために尊い生命を捧げたのかを、感じとってもらうために為された演説です。
リンカーンの演説は有名だし短いのでスマホで容易に見つかるでしょう。だがペリクレスの演説は私が訳したものを読んでもらうしかない。新潮文庫『ギリシア人の物語』二巻目の二四六頁から二五二頁まで。あそこに凝縮されています。民主政体下で政治家をする者の気概と感性のすべてが。そして現状を正直に述べながら最後は常に、それを聴いた人たちは将来への明るい展望を抱きながら帰って行けたと言われるペリクレスの演説の妙味までも味わわせてくれる。平たく言ってしまえば「殺し文句」なのだが、これを言える日本の政治家はほとんどいない。日本の政治家たちは、本気で女を口説いたことはないのかと思ってしまう。
次は、元老院議員の妻たちの三分の一は寝取ったといわれたユリウス・カエサル。しかもこの男は、モノにした女たちの誰一人からも憎まれず恨まれず、ゆえにスキャンダルにならなかったという、まれなる特技の持主でもあった。『ローマ人の物語』で彼を書きながら、私は独り言を口にしたものだった。あなたのような男は日本では、煮ても焼いても食えない男と言うんです、と。こういう男だから十五巻中の二巻まで費やしてしまったのだが、彼に関しては二例のみ記す。
第一は、賽(さい)は投げられたという有名な言葉とともにルビコン川を渡ったときの話。このとき彼は、正直に言う。ここを渡らなければわたし自身の破滅、だが渡ればローマは内戦に突入すると。これで、ルビコンを前にしていた兵士たちは思ってしまったのだ。オレたちの大将は正直に言ってくれた、と。そしてその後に「賽は投げられた」と言ったカエサルにつづいたのだった。賽は投げられたという言葉だけが歴史上有名になるが、実際はその前に言われた言葉のほうが、兵士たちを動かしたのだった。
二例目は、この兵士たちから従軍拒否を突きつけられたとき。つまり、ストライキを起されたときのカエサルの解決法。なにしろストも兵士がやるのだから、全員が武器を持っている。側近たちは兵士の前に行くのを止めるが、カエサルは一人での対決を選ぶ。そして、次の一語しか言わない。
「市民諸君!」これで空気が一変したのだ。カエサルは、それまでのガリア戦争の間、部下たちには常に「戦友諸君!」と呼びかけてきたからである。それが今、十年間も戦いを共にしてきた仲間ではなく普通の市民並みに「市民諸君」である。この一言で、大将はオレたちを捨てたのかとしょんぼりしてしまい、つまり反省したのだった。と言って、カエサルは彼らをただちに許したのではない。この二個軍団の兵士たちは、これより始まる内戦のために戦場になる北アフリカに向う派遣軍の最後に、負け犬ででもあるかのように従(つ)いていくという「罰」は受けたのだ。このエピソードは、ローマ帝国がつづいていた長い歳月、たった一言で空気を変えた好例として語り伝えられることになる。
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