田原 いまから80年前、昭和20年(1945年)に戦争が終わったとき、五木さんはどちらに?
五木 朝鮮半島です。旧制の平壌第一中学校というところの一年生でした。
田原 朝鮮にはいつ渡ったんですか?
五木 物心つく前ですね。生まれは福岡の八女という場所なんです。両親とも教師でしたが、田舎の師範学校を出たくらいじゃ下っ端で終わってしまうと思ったみたいで、新天地を求めたわけでしょう。日本列島からこぼれ落ちるように大陸へ出ていった。それで朝鮮半島を転々として、敗戦のときには平壌にいました。
田原 ご両親は向こうでも学校の教師を?
五木 そうです。共働きでした。僕のイメージの中の母親っていうのは、生徒の答案なんかをいっぱい抱えて、靴をカッカッと鳴らしながら帰ってくるという、そんな姿なんです。
田原 お父さんはどんな人だった?
五木 あのね、これ、対談ですよ。田原さんが聞き役のインタビューじゃなくて(笑)。
田原 つい2歳上の先輩にいろいろ聞きたくなっちゃってね。じゃあ自分の話をすると、僕は滋賀の彦根で生まれ育ったんです。父親は紐を作る工場を経営していました。ところが戦争が激しくなるにつれて民間業者には原料が入ってこなくなって、工場は閉鎖するしかなくなった。僕が小学校(国民学校初等科)3年生のときです。だから生活は本当に苦しかったんだけど、僕は大きくなったら軍人になるつもりで意気軒昂だった。海軍兵学校に行った従兄に憧れていたから、自分も兵学校に入って士官になって、天皇陛下のために名誉の戦死をしたいと思っていたんですね。
五木 僕は陸軍の少年飛行兵を目指していました。少年飛行兵からヒーローになった穴吹智(あなぶきさとる)軍曹という人が目標でした。だから中学校は2年あたりで中退して、軍の学校に行こうと思っていた。
田原 当時、将来の目標はそれしかなかったですよね。
五木 それしかなかった。中学1年の頃は毎晩なかなか寝つけなかったんです。特攻兵になって出撃して、敵艦に迫ったときに、自分は操縦桿を引き上げて逃げてしまうんじゃないかという不安があってね。そのまま突っ込んでいけるだろうかって、いつも悩んでいた。教育っていうのは恐ろしいものですよ。小学生や中学生が、自分は国のために死ねるだろうかって悩むようになるんだから。
玉音放送、そして壮絶な引き揚げ
田原 ところが、突然、戦争は終わってしまった。玉音放送を聴いたのは小学5年の夏休みです。近所の人と一緒だったけど、ノイズが多くて、何を言っているのか誰もよくわからなかった。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分を聞いて、まだ戦争は続くと思い込んだ人もいたしね。五木さんは玉音放送を聴きました?
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