ナポレオンの失脚
ナポレオンがブルボン王のようにその後代々続いていったなら、グロの人生も変わっていたかもしれない。
しかしナポレオンは駆け上るのも早かったが、転落もあっという間だった。皇帝になり、ハプスブルク家のプリンセスを強引に2番目の妃にして、世継ぎを産ませたまではよかったが、気がつけばヨーロッパ中から憎まれ、母国でも敵が増え、1814年、ついに失脚してエルバ島へ流される。翌年の百日天下はあったものの、この年がナポレオンの終りと言っていいだろう。グロはこの時、働き盛りの43歳だった。
成り上がりの皇帝が去るとブルボン王政が復古する。かつてルイ十六世の死刑に賛成票を投じたダヴィッドはフランスにいられなくなり、現ベルギーのブリュッセルへ亡命。大工房はグロの手に任された。またグロは、王政復古に伴って新設されたエコール・デ・ボザールの初代教授にもなり、それまでダヴィッドが受け持っていたフランス・アカデミーの牽引役ともなったのだ。それはつまり新古典主義をさらに発展させねばならないということだった。
はからずもフランス画壇のトップに立ったグロには、数々の栄誉と公的な仕事が与えられた。グロは真面目にそれに取り組んだが、彼がほんとうに描きたかったのは、彫刻的で動きの乏しい新古典主義絵画ではなく、若いドラクロワが精力的に発表しだした鮮やかな色彩と激しい動きのロマン主義絵画だった。だが社会的立場に縛られてそんな冒険はできない。グロとしては、情熱的なオペラを歌いたいのに、地味で玄人好みのドイツ歌曲を歌わされ続けたようなものだったろう。
軋む歯車に悩んだ画家の最期
ロマン主義の精神的傾向は、近代的個人主義、感性の解放、憧憬、熱情といったものだが、そこには必然的に幻滅や鬱がつきまとう。ヴェルテル(ゲーテ作『若きヴェルテルの悩み』)のように、クライストもゴーゴリも自殺した。シューマン、ベルリオーズ、フリードリヒは自殺未遂、そしてバイロンやポーは間接的な自殺ともいうべきものだ。
グロもまた深い鬱にとらわれてゆく。己の芸術を極めるより、工房の維持や社会的名声を優先してきて、気づけばナポレオンに幻滅したように今度は自らの才能にも幻滅していた。セーヌ川へ身を投げたのは、64歳の時である。
アントワーヌ゠ジャン・グロ(1771~1835)は、ドラクロワを評価していたのだが、『キオス島の虐殺』に対しては「絵画の虐殺だ」と酷評した。それがグロの限界だったのかもしれない。
※(全2回の2回目/前編より続く)
(『中野京子と読み解く 運命の絵 もう逃れられない』P.138「若き英雄の誕生」より転載)