小澤征悦演じる兄・弥太郎は2度のアメリカ留学へ
通庸は1888年10月、53歳で亡くなった。長男の弥太郎はその前月、留学先のアメリカから帰国し、すでに病床にあった父に成長した姿を見せることができた。
弥太郎は1867(慶應3)年、鹿児島に生まれた。父の赴任にともない上京し、一時山形ですごしたのち、駒場農学校を経て1884(明治17)年、17歳にして渡米、マサチューセッツ農科大学などで学んだ。父の没後、再び渡米してコーネル大学大学院で害虫学を研究し、学位を受けている。弥太郎が最初のアメリカ滞在時に家族宛てに送った90通あまりの手紙は、彼の長男・通陽の娘婿の三島義温(よしやす)の手で公刊されている(※2)。そこには、家族から送られてきた集合写真を見た上で、ポケットに手を入れた弟を叱ったり、妹の目が「妙にさがっているので見苦しい」と注意したりと、長男としての厳しさもうかがえる。
『いだてん』では弥太郎を冷徹な人物として小澤征悦が演じているが、実際の彼は温厚な性格で、地位の上下を問わず誰にも親切に接する人だったようだ。在宅時に来訪者があれば、どんな人でも面会したし、相手が後輩や使用人でも応接間に通して、病を押しても面接したという(※2)。
貴族院議員から銀行頭取、そして日銀総裁に
2度目の米国留学後、さらにヨーロッパをまわって帰国した弥太郎は、農商務省、逓信省の嘱託を経て、貴族院議員を1897年から亡くなるまで務めた。議員として予算案の審議にかかわるうち、経済・金融の分野でも頭角を現す。やがて元老・井上馨の口利きで横浜正金銀行の嘱託となり、1911年には頭取にまでのぼりつめた。さらに1913(大正2)年、山本権兵衛が首相となると、大蔵大臣就任を打診されるも固辞。そこで日本銀行総裁の高橋是清が蔵相となり、それと入れ替わる形で弥太
日銀総裁としての弥太郎は、積極的な金融政策をとった高橋とは逆に消極政策をとった。その慎重な姿勢は、1914年に第一次世界大戦が勃発し、輸出増加により日本が債務国から一転して債権国になっても変わらなかった。国際収支の黒字を持続しながらも、通貨が膨大となり物価が暴騰しないよう工夫を重ねている(※3)。