それから40日以上にわたって逃走劇を展開した
午前4時ごろ、熊次郎の実兄清次郎宅近くの道に張り込んでいた山越信司・多古警察署巡査(35)に見つかり、「熊次郎、待て!」と声を掛けられた。サーベルで山越巡査の頭に切りつけ、格闘に。捕縄で取り押さえられそうになったが、巡査の親指にかみつき、ひるんだすきに山林に逃げ込んだ。
2人を殺害、4人に重傷を負わせて放火した熊次郎は、それから40日以上にわたって大捜査網を尻目に逃走劇を展開。「鬼熊」の名を広く世間に知らしめることになる。
10日前の8月10日には、病状が悪化した大正天皇が自動車と列車で葉山御用邸に入っていた。逝去の12月25日まで4カ月余り。大正時代の終幕が刻一刻と迫っていた。
ケイに若い愛人ができたことからトラブルが頻発
荷馬車引きは、馬が引く荷車で山から切り出した木材や、それを焼いた炭などを近くの八日市場や成田などに運び、帰りに九十九里浜でイワシから作られた肥料用の干鰯(ほしか)などを載せて帰って来る仕事。「次浦と佐原の間には毎日、荷馬車の便があった」と郷土史家は言う。
熊次郎は上州屋に客として通ううち、事件の約4年前からケイと関係ができていた。さらに、別に土屋忠治が経営する旅館で働いていた女性とも関係ができ、その女性の借金を返すために金を使った揚げ句、女性に逃げられた。その間、ケイに寅松という若い愛人ができたことからトラブルが頻発。熊次郎は、繰り返し寅松との関係を追及してケイに暴力を振るい、警察沙汰に。事件前月の7月には、包丁でケイを脅して逮捕され、八日市場裁判所で懲役3月執行猶予3年の判決を受けた。
8月18日に釈放され、19日夜、上州屋に来て、居合わせた2、3人と話をしていた。そこに偶然寅松が来合わせたことから、「憤怒抑へ難く殺意を生ずるに至る」(捜査資料)。これが事件の直接の引き金になった。寅松は驚いて家に逃げ帰り、隠れた。熊次郎は、種雄が三角関係に介入し、「熊次郎より寅松を」とケイに吹き込んだとして、長松は熊次郎が預けた別の愛人を逃がしたとして、それぞれ恨みを抱いていた。ほかにも、忠治は「長松とグルになって自分をだました」、向後巡査は「一連のトラブルで自分に不利な扱いをした」として恨んでいた。