「殺人鬼・熊次郎」が「鬼熊」になるまで
事件発生当時、多古署は署員12人。それに消防組員が加わり、千葉県警察部から派遣された応援の警察官50人で熊次郎を追ったが、行方はつかめなかった。
熊次郎は4日後の8月24日夜、忠治宅前の路上に、翌25日未明には寅松宅の庭に現れた。いずれも騒がれて逃走。25日夜には、出沼から南西に約3キロ離れた多古町飯笹登戸の開墾地に住む、元荷馬車引き仲間の家に押し掛けて風呂に入った。帰りに握り飯をもらう際、「目指す寅松、忠治らを殺せば自殺する」と語った。
地元紙「千葉毎日新聞」はこれを報じた記事に「出没自在の鬼熊」の脇見出しを付けた。これがメディアに「鬼熊」が登場した最初と思われる。それまで各紙の記事は「殺人鬼(岩淵)熊次郎」の見出しが多かった。取材現場などでそれを縮めて「鬼熊」と呼んでいたのが、そのまま見出しになったのではないだろうか。
行動範囲の広さは驚異的といえる
鬼熊は8月26日夜には、前日現れた場所から北西に4キロ余り離れた、当時印旛郡遠山村(現・成田市)の道を歩いているのを捜索隊に見つかり、追われたため、着ていた着物を脱ぎ捨てて逃げた。そこは45年後、成田空港反対闘争中に機動隊員3人が反対派と衝突して死亡した東峰十字路に近い場所。
27日には、少し離れた香取郡本大須賀村(現・成田市)の開墾地の農家に、そして31日には、最初の現場の高津原にある開墾地の知り合いの家に現れ、握り飯や卵を受け取った。
鬼熊は身長5尺1寸(約155センチ)と当時でも小柄だったが、労働で鍛えたガッシリとした体格。「マラソン選手として活躍した」と報じた新聞もあった。毎日荷馬車を引いて歩き回り、勝手を知った地元だったが、それにしても行動範囲の広さは驚異的といえる。
県警察部はさらに県下の警察署から大量動員。8月27日、警部補、巡査計100人と久賀村消防組総動員で周囲6里(約24キロ)を包囲して山狩りを行った。9月1日には野村信孝警察部長の指揮の下、警察官280人、消防組員約3000人で再び大規模な山狩りを実施。しかし、鬼熊を見つけることはできなかった。
消防組員の間には、「どこかの森の中で首でもくくっているのではないか? 腹でも切っているのでは?」などとうわさする者もいたが、鬼熊は、9月に入っても食料などを求めて民家に出没。その後繰り返された山狩りや検索の網にもかからず逃げ続けた。