逃亡するのに最適な場所だった理由とは
要因の1つは、周辺が昔の「牧」(牧場)で、逃亡するのに最適だったこと。古代から馬の放牧が行われ、江戸時代には幕府が管理。明治維新後、政府が窮乏にあえぐ元幕臣に開拓を委ねようとしたがうまくいかず、開拓民が個別に入植して開墾を進めた。久賀村の北西には、昔の「矢作牧」の跡地の1つである「十余三」地区が接していたほか、村内にも多くの開墾地があった。捜索対象地域はそれらを中心に、千葉県の香取、印旛、山武3郡にまたがった。
「面積五千四十四萬五千八百坪(注:約166平方キロ)もあると云ふ広漠たる森林帯原野で、既に開墾されてゐる所ですら隣家への距離が概ね四五丁(注:約436~545メートル)もあらうと云ふ、捜査上甚だ困難な場所であつた」(捜査資料)。現在の東京都の4分の1以上に相当する面積に一軒家が1917戸も。電話などなく、連絡は徒歩か自転車に頼るしかなかった。
巡査が「熊次郎、待て」と声を掛け……
鬼熊は村内の出沼地区にある農家の四男に生まれた。地元では「佐倉藩の下級武士の末裔」ともささやかれる家だった。尋常小学校を3年で中退。地元の豪農で県会議員も務めた五木田太郎吉家の小作人や、兄清次郎の農業の手伝いなどをした後、独立し、妻と5人の子どもがいた。
警察は立ち回り先の1つとして五木田宅をマーク。9月11日は河野昱太郎・多古署巡査(24)ら2人が張り込んでいた。午後8時ごろ、鬼熊が裏庭に現れて裏口に向かおうとしたのを、河野巡査が「熊次郎、待て」と声を掛け、逃げるところを飛びかかろうとした。鬼熊は無言のまま、持っていた大型の鎌を横に振るった。鎌は頸動脈を切断して河野巡査は即死。鬼熊はそのまま姿をくらました。犠牲者は3人に。地域は再び騒然となった。
当時はラジオ放送が始まったばかりで、事件を伝えるメディアは新聞と雑誌くらいしかなかった。ニュースの“夏枯れ”の時期でもあり、新聞各紙は東京などから応援の記者を多数派遣。伝書鳩も使って取材合戦を展開した。
鬼熊の一挙手一投足をセンセーショナルに伝えた
スクープを争って紙面はエスカレート。容疑者の呼び名も最初は「殺人魔岩淵 警戒網に現はる」、「殺人鬼の捜査 迷宮に入る」などと見出しにしていたのが、「出没自在な熊公 大山狩も効なく」、「熊によく似た男が荷馬車で佐原へ」となり、最後は全紙「鬼熊」で“統一”。「熊次郎出た!」、「ひと風呂浴びて殺人鬼のひる寝」、「魔か人か、探しあぐむ」など、競って鬼熊の一挙手一投足をセンセーショナルに伝えた。
仲秋の名月の夜に「月見をさせてくれ」と民家に現れ、月見団子を平らげたという真偽不明の記事も現れた。狙われた相手の様子を、寅松は「二十日余りの戸棚生活」、忠治は国定忠治に引っ掛けて「日本刀を抱き寝の恋敵」などと、茶化すような調子も。いまのテレビのワイドショーや週刊誌以上の過熱ぶりだった。同時期に鎌で人を殺した長野県の男は「信州の鬼熊二世」、東京で「俺は熊公だぞ」と言って鎌で脅した男は「熊、東京に現る」と報じられた。
【「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」住民たちが連続殺人犯を匿っていた理由とは】に続く