展覧会などに足を運んで作品に触れて、自由に何かを感じればいい……。それがアートの楽しみ方の基本。でもそのとき、何かこれまでにない「視点」を持てれば、より深く味わうことだってできそうだ。
そのためにうってつけの「美の基準」がいま、一冊の新書によって提示されている。
アートの新基準:「カッコいい」ってなに?
アートを観るうえで大いに参照できそうなその概念とは、「カッコいい」という言葉。
そう、だれもがよく用いる、あのありふれた日本語だ。至極単純なようでいて、じつはひじょうに複雑な意味合いを含むこの「カッコいい」こそ、20世紀後半以降の私たちの考えや行動を規定してきたもの。これをより知ることは、当然アートに触れるときにも大いに助けになってくれる。
それなのに、これまでだれも「カッコいい」を正面から論じていない――。そんな気づきを10年ほど前に得た小説家・平野啓一郎さんは、小説執筆と並行して、「カッコいいとはどういうことなのか」について考え、書き継いできた。成果を一冊にまとめたのが『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)である。
なぜ作家・平野啓一郎は「カッコいい」にのめり込んだのか
ただ、ここでひとつ不思議に思う。平野啓一郎さんといえばデビュー作『日蝕』や大長編『葬送』で重厚な歴史を扱い、近年の『マチネの終わりに』で愛の問題を、最新小説『ある男』ではアイデンティティについて強く問いかけてきた。つねに深遠なテーマを扱ってきた印象が強い。そんな当代きっての正統的な文学者が、ちょっと軽くて卑近な「カッコいい」という言葉にこだわるというのはどこか違和感が……。
「そのギャップは自覚しています。ひとり執筆を進めていて、論考がまとまってきたころから『いま、カッコいいについて書いているんだ』とほうぼうで話すたび、人の反応はたいてい、『は?』のひとことでしたから(笑)」
と平野さんは言う。ならばもうすこし、「カッコいい」にのめり込んでいった経緯を教えていただこう。
「僕たちは『カッコいい』という言葉を、あまりにも自明のものとして使っているのはたしかですよね。でもいざ人と『カッコいいとはどういうこと?』と議論してみると、合意が生まれるどころか、たいてい収拾がつかなくなってしまう。本書の冒頭でも、僕の体験談をひとつ披露しています。
学生時代に京都でバーテンダーのアルバイトをしていたんですが、あるとき男性客ふたりがボクシングの辰吉丈一郎さんについて議論を始めた。目を負傷して引退勧告を受けてなお、ルールを覆しながら現役続行する姿を、ひとりはカッコいいと見て、片方はカッコ悪いとみなした。双方譲らず、つかみ合いの喧嘩に発展してしまったんです。」