「好き」がこじれる。そんな現象がある。

 たとえば芸能人に対する感情である。

 私が大きく影響をうけた有名人で、誰でも知っていそうなのはダウンタウンの松本人志なんだが、これに関しては自分のなかでこじれにこじれている。

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こじれすぎて雑談ができない

 小学生の頃に存在を知って以来、二十年以上活動を追っているから、夢中だった時期と冷めた時期とふたたび夢中になった時期と冷めた時期と改めて再評価した時期……というふうに無数の関わりかたをしており、「好き・嫌い」のようなシンプルな分割ではとても対応できない。

 なので、雑談の場で「松本人志のこと好きなんですね」とアッサリ言われてしまうと、「いや好きは好きですけど全部が好きということではなくて……」と曖昧な反応になってしまう。

「ビジュアルバムとか放送室とかガキのトークとかいまみてもすごいしごっつのコント(とくに後期)もすごいしそりゃ好きは好きですが簡単に好きとは言いたくなくて……」

「あっ、じゃあ最近の松本人志は好きじゃないんですね?」

「いやあなたはそう簡単に切り捨てようとしますけど今でも普通に笑うことたくさんあるしバラエティタレントとしての能力は確実にトップクラスですし無闇に過去を美化するのは人間の悪い癖で――」

「あっ、じゃあ今も好きなんですね」

「いやだから簡単に好きと言うのは違くて当時と現在の違いを加味した上で個別の作品の好き嫌いも考える丁寧さなしに語ることをしたくないだけで――」

「めんどくせえよ!」となる(自分で自分に)。

松本人志(1996年)©白澤正/文藝春秋

 雑談では次の話題にさっさと進んでいくことが多く、そんな状況ではとても自分の思いは語り尽くせない。そして中途半端に語ること、ましてや単純な好き嫌いに当てはめることなどはしたくない(ああ、めんどくさい)。

 長年の一方的な付き合いによって、もはや松本人志に対する私の心は複雑な迷宮と化しており、その複雑さをできるかぎり複雑なままで語ることができないのならば、沈黙を選んだほうがよい。

 しかし雑談の場では「要するに好きなんですか?」という非常にざっくばらんな問いかけが登場してしまう。心の迷宮に「要するに何LDKなんですか?」と尋ねるようなものである。迷宮をLDKで数えられますか。

 ちなみに、私は松本人志のことを「まっちゃん」と呼ぶ人を見るだけで、「あっ自分とは違う関係の持ち方をしてる」と考える。

「俺は、ちゃん付けしないけど……」

 めんどくせえ!

松本人志(2016年)©山元茂樹/文藝春秋

コアな部分と向き合いたくて呼び捨てにする

 対象を呼び捨てにすることで表現される愛がある。せっかくなので引き続き松本人志で考えてみると、「まっちゃん」と呼ぶのは親近感の表れである。そして「松本」と呼ぶとき、その親近感をいったん切断している。「あいつの私生活に俺は興味がない」ということである。

「まっちゃん」と呼ぶことが「松本人志という人間の全体が好き」という立場だとするならば、「松本」と呼ぶことは、「俺はあいつの芸人としてのコアな部分とだけ向き合うのだ」という意思表明なのである。

 これは以前書いた「スラムダンクの深津をほめるおじさん」ともリンクする。あのおじさんは、自分の評価する選手を「深津」と呼び捨てにしていた。ここでおじさんが「深津さん」や「深津くん」と言った場合、ニュアンスが完全に変わってしまう。ここは絶対に呼び捨てでないと成立しない。

 愛する者を呼び捨てにすることは「切断への意志」である。「芸以外を切断するのだ」という意気込みが、呼び捨てという現象を生むのである。そうやって、心の迷宮を日々複雑にしていくのである。

 しかしまあ、めんどくさいですね、これは。要するに好きなんでしょ?