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「露営の歌」が大ヒット 「軍歌の覇王」に

 さて、古関は金子との結婚後、東京に出て、コロムビアの専属作曲家となった。当初は鳴かず飛ばずだったが、日中戦争の初頭に「露営の歌」を大ヒットさせて「軍歌の覇王」と謳われ、不動のヒットメーカーに登りつめた。

「露営の歌」歌碑と古関裕而・金子。古関正裕氏提供。

 古関を語る上で、戦争との関わりは無視できない。

 戦地訪問もそのひとつ。古関はその若さ(20代後半~30代前半)ゆえに、3回も慰問などで戦地に駆り出された。山を超え、谷を渡り、ジャングルの奥地にも踏み入るその見聞録は、自伝『鐘よ鳴り響け』の読みどころのひとつとなっている。

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 ただ、そこに掲載されていないエピソードも少なくない。「南シャン州のタウンギーで牟田口閣下に会いました」。元軍人に当てた手紙でそう書いているように、古関は1942年、NHKの南方慰問団の一員としてビルマにおもむき、第18師団長の牟田口廉也に会っている。

 同行者によれば、牟田口は豪勢な牛肉料理で歓迎してくれ、「どうだ、いいロースができてるだろう」と食肉牛の飼育方法について一席ぶったという。

 今日からすれば、悪い冗談というほかない。というのも牟田口は、のちに無謀なインパール作戦を強行して大量の餓死者を出し(その過程で、牛を食糧を兼ねた駄馬代わりに利用しようとして失敗している)、愚将と呼ばれる軍人だったからだ。これもまた自伝に記されていない秘話である。

アジア太平洋戦争下の古関裕而(中央の頭巾を被った女性の右)。古関正裕氏提供。

 このように古関裕而は、ほぼ昭和全般に渡って活躍した。そのため、その人生をたどるだけで、昭和史のさまざまな出来事に触れられる。軍事大国だった日本、経済大国だった日本――。牟田口の牛肉も、金子の株も、そのひとつにほかならなかった。

 だからこそ、朝ドラも描きがいのあるものになるだろう。「栄冠は君に輝く」や「オリンピック・マーチ」だけが注目すべき部分ではない。とくに南方慰問団を派遣したNHKには、豊富な資料が眠っているはずだ。ビルマで牟田口廉也と牛肉を食べるシーンも、戦時下の貴重な一コマとして再現してくれることを心から期待したい。