サウナに生まれ育って30年で初めて体験した“ととのい”
「アメリカから帰ってきて、まずはサウナの勉強をしようと、2000年に船井総合研究所の温浴チームのコンサルタントの勉強会に1年間参加したんですよ」
奇しくもその時の講師はアクトパスの望月義尚と、サウナ王こと楽楽ホールディングスの太田広という、日本のサウナ業界を先導する二人だったという。
「大阪、難波のニュージャパンスパプラザに行ってみたら、ストーンに水をかけて熱い水蒸気を発生させたサウナに入って。熱くてふらふらになってその後、水風呂まで。当時は“ロウリュ”なんて知らなかったもんですから、変なことやるなぁと思いながら、水風呂から上がって椅子に座って目を閉じたんです。そうしたら、何とまぶたの裏に万華鏡みたいな模様があらわれて……。その時はまだ“ととのい”という言葉もなかったので、『これなんだ!?』ってなって」
サウナ施設に生まれ育って30年。それが加川の“初ととのい”だった。そこから加川はサウナの魅力にとりつかれ始める。
施設の老朽化が進み、経営も悪化
「正直これはすごい体験だと思いました。サウナはすごい魅力があるんだと。そこからサウナを盛り上げていこうと思っていたんですが……」
おりしも世はスーパー銭湯ブーム。周辺には次々とハイスペックなスーパー銭湯が林立しはじめる。と同時に加川を襲った悲劇、それは施設の老朽化だった。これが閉館までずっと加川の頭を悩ませる要因となる。家業のサウナを承継することに“ととのい”という活路を見出した矢先の出来事だった。
「1986年に立て直してから14年経っていました。普通の家なら問題ないんですが、サウナでしかも24時間営業なので普通に考えても耐用年数はかなり低いんです。天然温泉の質はどこにも負けていない自負もあったし、レストランもメニューはほとんど手作り、マッサージ師は全員国家資格を持っていて腕がいい、という誇りを持ってやったんですけど……。どんどん経営は厳しくなって」
新規参入による競合の増加と施設の老朽化でシェアが取れず、思ったようにいかない経営に加川は次第に腐っていったという。
「周りに新しい施設がボコボコできるわけですよ。当然向こうの方がきれいだし色んな種類のお風呂もあるし。それに比べ、うちは“古くさくてボロい”みたいな感じで結構叩かれたりしました。資金繰りが厳しくて自分の給料を削って修繕費にまわしたり……。営業的には本当に大変でしたし、止めたいと思ったこともあります」