1ページ目から読む
2/4ページ目

 ハリウッド映画産業は試写会で観客の反応を見て観客の満足を最大化するように映画の内容に手を加えてきた。こうやって編集された最終バージョンをファイナル・カットと呼び、多くの場合監督ではなくプロデューサーがファイナル・カットを決める権利を行使してきた。映画に代わってテレビが主要なメディアになっても視聴率調査という方法で視聴者の反応を計測してきた。 

 つまり映画からテレビに至る映像メディア産業は、観客や視聴者の欲望に注意を払い彼らの快楽に奉仕してきたのだ。そういう意味では、今回の『テラスハウス』は、映像産業の陽の当たらない忌み子なのではなく、まさにこれらの産業の嫡子なのだ。 

 したがって、今回の件は『テラスハウス』という特定の番組だけの問題というわけではない。例えば、日本のワイドショーはニュースを淡々と伝達するというよりは、他人の人生を覗き見し彼らの複雑な人間関係を興味本位で楽しむ場となっている。 

ADVERTISEMENT

©iStock.com

『テラスハウス』で木村花氏が「生意気な女」というヒール役を演じさせられたように、テレビのワイドショーでは日々視聴者の不安や怒りといった感情を煽るためにどこかの誰かが悪人に仕立て上げられている。社会の公的な問題を私的なメロドラマの手法で描き出すことで、私たち視聴者の欲望を刺激し視聴率へと「換金」するのがワイドショーなのだ。 

出演者たちによる「演じない自分を演じる」労働

 ワイドショーに典型的に見られるように、公的な問題と私的な感情を意図的に混同する手法は、『テラスハウス』においては「演じない自分を演じる」という自己矛盾的な労働形態として現れる。 

 リアリティ番組は建前上、台本のないリアリティを売りにしている。もちろん、現実的になんの意図や期待もなしに番組制作が行われるはずもなく、結果的にそれぞれの参加者が、プロデューサーや監督の意図を汲み取りながら、ワイドショーで戯画化されるようなキャラクターをあくまで素の自分として演じるのである。 

©iStock.com

 生活を共にする中で自然に発生する様々な感情を、自分自身で誇張し商品として切り売りするのが、リアリティ番組の労働者たる出演者たちの「演じない自分を演じる」労働なのだ。 

 このようなリアリティ番組の手法やテレビ番組の制作現場の問題に対しての批判は当然のことだが、しかし現代において公的な領域と私的な領域の区別を取り戻すということが可能だろうか?