欲望を「ずらす」二次創作の可能性

 この事例は、リアリティ番組について書くことを通して、単に中傷や罵倒の言葉を投げるのではなく、違う立場の人間の視点に立って物事を考える可能性を指摘したものだ。ジェンキンスはこのようにポピュラー・カルチャーの経験が、市民的成熟の可能性の場として機能することを強調することが多い。 

 もちろん、この事例はSNSが今のように匿名の中傷や攻撃のツールとして一般化していなかった牧歌的な時代の話である。実際、ジェンキンスの楽天主義に対する批判も多い。 

 しかし、映像産業の窃視症的に関係性を消費するコンテンツを受容しながら、同時にそこで用意された欲望を楽しみつつも少しずらし、二次創作小説という形で自分自身の言葉を作り出すこの事例は、私たちが欲望を刺激するメディア産業と向き合うときに参考になるのではないだろうか。 

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 心の中に留めている限りにおいては、窃視症的な快楽や他人同士の関係性を見て感情が昂ることそれ自体は悪ではない。フィクションは、自分自身について、そして自分と他者や自分と社会の関係について考えたり想像したりする機会となる。そのフィクションは多くの場合、一般的には高尚だとかお上品とは言われない種類の快楽がつきものだ。 

 規制したり制限したところで欲望はあるのだ。あなたは何を求めて「演じない自分を演じる」労働をする『テラスハウス』の出演者たちを覗き見し、そしてなぜ彼らに怒ったり同情したりするのだろうか? そうするとき、あなたの中にはどんな欲望があるのだろうか?