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2020/08/11

 当時は桑田さんのように家計を支えるために漫画を描いていた作家も多く、『ドカベン』(’72年)の水島新司先生や『あしたのジョー』(’67年)のちばてつや先生もそうだったと聞く。もっともお二人とも漫画家には好きでなられたようだが。桑田さんは高校進学を希望するも、家庭環境が許さずに断念。中学3年生でひとり神奈川県の横浜に転居。漫画を描いて、実家に仕送りを続けていたという。今でも同じ事情で漫画家を志す方はいるかもしれないが、戦後直後と今ではその環境に隔世の感があるだろう。いい悪いやクオリティといった問題でなく、作品の持つ味や作風というものは、それを描く者の人生そのものが滲み出るものだと思った。

『まぼろし探偵』と『月光仮面』で大ブレイク テレビヒーロー漫画の旗手に

 そんな苦労人の桑田さんの転機となったのが、昭和32(’57)年に発表した『まぼろし探偵』だった。少年探偵・富士進が、アイマスクと専用コスチュームを装着してまぼろし探偵に扮装! 紅こうもりや白仮面などの悪人やギャング団を相手に戦う姿を描いたこの作品は、ラジオ、そしてテレビドラマ化もされて大ヒットした。

『まぼろし探偵〔完全版〕 第一部 上』。

 面白いのは桑田さんがその翌’58年に『月光仮面』のコミカライズを手がけている点。『月光仮面』は我が国のテレビ・ヒーローの元祖だが、自身のオリジナル作品『まぼろし探偵』がブレイクした直後に、桑田さんは『月光仮面』のコミカライズを描き、それも大ヒットさせている。

 大抵の漫画家はオリジナル・ヒット作が出るまでの、言い方は悪いが“繋ぎ”として、テレビや映画のコミカライズを引き受けるものだが、桑田さんは『8マン』の大ヒット後も『ウルトラセブン』(’67年)やSFドラマ『怪奇大作戦』(’68年)、未テレビ化に終わった、ピー・プロ企画の『豹(ひょう)マン』(’68年)などのコミカライズを描き続けた。そこに先の「好きで漫画家になった訳ではない」の言葉が蘇る。桑田さんは“食べるために”漫画家になったのだ。それは“嫌イヤ漫画家になった”ということでなく“生きるために漫画家という仕事を選んだ”ことを意味する。

 だから、ベテランになろうが大作家と呼ばれようがコミカライズでも平気で引き受ける。その作家としてのスタンスは、終生変わることはなかった。

『8マン』で押しも押されもせぬ 大ヒット漫画家の仲間入り

 昭和38(’63)年に「週刊少年マガジン」(講談社)に連載した『8マン』は桑田さんはもとより、「少年マガジン」にとっても初の大ブレイク作品となった。SF小説家の平井和正先生に原作を求めたこの作品は、テレビアニメ化されさらに大ヒットした。とある事件で殉職し、脳髄を移植したロボット戦士の8マンとして復活した警視庁刑事・東八郎の孤独な戦いを描くこの作品は、以降、桑田さんの描くヒーロー・コミックのスタンダードとなる。

『8マン』。

 

 後の『バットマン』(’66年)や『豹マン』のコミカライズでも、基本設定に“苦悩するヒーロー像”はあったものの、桑田さんはその部分をより膨らませ、心血を注いで描いていた。ここでもやはり「好きで漫画家になった訳ではない」を思い出す。

 8マンやバットマン、豹マンも好きでヒーローになった訳ではない。だからといって嫌イヤ戦っている訳でもない。時には自分の努力で、人々に平和や笑顔が戻った事実を喜び、誇りに思うことすらある。そこにあるのは、どんな仕事にも通じる“プロ魂”だ。桑田さんは、ヒーローを通じて、漢(おとこ)が仕事に向き合う、かくある姿を少年読者に伝え続けていたのだろう。

海外で「Batman The Jiro Kuwata Batmanga Vol. 1」として発売されている桑田版『バットマン』。

『8マン』の人気絶頂期に……紆余曲折を経た作家生活

 “好事魔多し”とはよくいったもので、人気絶頂のさなか、『8マン』は突如打ち切りとなる。銃刀法違反で桑田さんが逮捕されたからだ。桑田さんが趣味で入手した実銃の存在が警察にリークされたため……これも今となっては真相は藪の中だが、実際にそれ以上でも以下でもなかったようだ。『8マン』ブームは終息。桑田さんも大ヒット漫画家の座から降りることに。