筆者にとってオリックス、いや「阪急」は物心がつきはじめた頃にものすごく強かった球団。幼い頃は漠然たる憧れの対象だったのだが、本気で「阪急ファン」となったのは、ホビージャパンが出していた「熱闘12球団ペナントレース」というカードゲームがきっかけだった。
南牟礼豊蔵か小林晋哉か、の日々
今回写真を用意したのは、だいぶ後になって偶然見つけた1989年版(1988年のデータに基づく)を買って新品のまま保存してあったもの。阪急でいうと山田久志・福本豊の最終年の成績によるもので、野手には現審判員の飯塚富司なども入っており、なんとも懐かしい。
このゲームを最初に手にしたのはさらに前で、確か1984年版(1983年のデータに基づく)であった。当時14歳の中学2年生。同級生12人でひとり300円か400円かを出し合い、1球団ずつを担当して12球団総当たりのリーグを開催したのである。
いまの時代なら『プロ野球スピリッツ』で対戦したりするのだろうが、インターネットやスマホなどまだまだ遠い未来という時期。遊びは基本的にアナログだった。
各球団は投手野手合わせて30人のカードで構成されている。投手にはグレードという格が設定されており、野手にはポジションと守備力、盗塁の上手さといったパラメーターが用意されている。
攻撃側が紅白のサイコロを振り、赤→白の順に読む。例えば「(赤)5(白)3」だと打者のカードに書かれた「53」の右にある数字を見る。それが「23」なら今度は、ランナーの配置ごとにページが組まれた結果早見表を見る。そこの「23」に「三振」と書いてあるので三振、といった具合にゲームが進むのだ。
同じ数字でも、投手のグレードによって結果が違ってきたり、投手や打者につけられた特殊なパラメーター(三振を取りやすい、足が遅い、など)によって結果が変わることもある。
これに我々は熱狂した。休み時間ごとにペナントレースが展開された。私も外野手の3人目を南牟礼豊蔵にするか小林晋哉にするか、ブーマーに代走を出したいがもう一度打席が回ってきたら米村理になるがそれでいいのか……という日々を送っていたのである。
勝手なゲームシステム変更でさらに盛り上がる12球団リーグ
ただ、6×6=36通りのサイコロでは結果の幅に限界があり、また前年の成績から機械的に算出されたカードの内容は、ちょっと粗すぎた。打高投低すぎるとか、俊足選手は盗塁が決まりやすいといった問題もあった。
ある日、私(阪急ブレーブス)が同級生のO君(大洋ホエールズ)と対戦した時のこと。当時阪急のカードは福本豊・弓岡敬二郎・簑田浩二と、盗塁のパラメーターが高く四球になることが多い選手が揃っていた。
1回の表、阪急の攻撃。福本四球→盗塁成功。弓岡四球→ダブルスチール成功。簑田四球で満塁→トリプルスチール成功→2、3塁からのダブルスチール成功→簑田ホームスチール成功で3点が入った。
「そんなこと現実にあるわけないだろ!」と激怒したO君は、「だいたい堀内(恒夫)がホームラン打ちまくるのもおかしい!」(注:堀内は前年に少ない打席数のなか引退戦でホームランを打っていたため、カード的には年間80本レベルの打撃データになっていた)と、ゲームのシステムに対しても怒りはじめた。
そしてO君は翌日から関数電卓と「ベースボール・レコード・ブック」を駆使して「あるべき野球カードゲーム」を追求しはじめ、1か月後には新ゲームを開発した。投手側がまずサイコロを振って投じられた球の甘さ・厳しさが3つのレベルで決まり、打者はそれぞれに応じた36パターン(×3なので結果は108通り)で結果を出すこととなった。もちろん厳しい球が来るか失投が来るかは投手の能力によってバランスが変えられている。
のちにホビージャパンは1991年に投手→野手とサイコロを振る後継ゲームを出したようなので、O君はだいぶ時代を先取りしたことになる。