昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/10/07

ライブハウスを中心に活動し、ライブは常に酸欠状態

 群馬県高崎市出身の氷室は高校在学中、同級生の松井恒松らと「デスペナルティ」というバンドを結成し、本格的に音楽活動を始めた。当初、氷室はドラム、松井はサイドギターを担当していたが、やがて氷室がギターを持ってリードボーカルを務めるようになり、松井はベースに回った。高校卒業後、デスペナルティはアマチュアバンドのコンテストの関東甲信越大会に出場し、決勝でギタリストの布袋寅泰率いるBLUE FILMと争っている。それから2年後の1981年、氷室・松井・布袋を中心にBOØWY(レコードデビュー前の表記は「暴威」)が結成され、新宿ロフトでライブデビューする。このあとドラマーの高橋まことが加入し、翌1982年に1stアルバム『MORAL』をリリースした。

1stアルバム「MORAL」

 初期はライブハウスを中心に活動していたBOØWYは、1984年にはライブは酸欠状態となるのが常となり、音楽業界でも注目され始める(※3)。3rdアルバム『BOØWY』リリース直後の1985年6月には、渋谷公会堂公演を敢行。このとき彼らはまだレコードセールスでは大々的なブレイクはしておらず、渋谷公会堂でのライブはかなり思い切った勝負だった。しかし見事に成功を収め、これを機にホールでの活動に移行する。1986年の4thアルバム『JUST A HERO』は初めてチャートにランクインし(最高位5位)、同作を引っ提げての全国ツアーの最終日には、初めて日本武道館のステージに立った。いまなお伝説的に語り継がれている氷室の「ライブハウス武道館へようこそ」というMCは、このとき飛び出したものである。

突然の解散、そして氷室のソロデビュー

 しかし、BOØWYは人気絶頂にあった1987年12月、渋谷公会堂でのライブで氷室の口から解散を宣言。翌1988年4月、オープンまもない東京ドームでの2日間にわたる“LAST GIGS”をもってすべての活動にピリオドを打つ。その後、氷室はいち早くソロ活動を開始し、解散からわずか3ヵ月後にはソロデビューシングル「ANGEL」、さらに9月には前出のアルバム『FLOWERS for ALGERNON』をあいついでリリースした。

BOØWY解散後にはわずか5か月で『FLOWERS for ALGERNON』をリリース

 ソロになってからも氷室の歩みはさまざまな伝説で彩られている。たとえば、1993年のアルバム『Memories Of Blue』リリース時の全国ツアー「L'EGOISTE」における“やりなおしライブ”。これは1月の大阪城ホールでの公演中、氷室が突然、きょうは体調が悪くて満足のいくステージができないかもしれないと観衆に明かしたうえ、後日行なう東京公演に「ここにいる全員を招待する!」と宣言したのが発端であった。彼はこの日、公演前からマネージャーにきょうはやめさせてくれと訴えていたが、認められなかったので、途中でやめてもいいとの条件でステージに上がったという(※4)。結局、氷室は途中降板することなく全曲を歌い終えるも、約束は守った。東京・代々木体育館でのツアーファイナルの翌々日(5月12日)、同じ会場で、大阪公演に来ていた観客を無料で招待してあらためてライブを開催したのである。