母親とは7年間会っていない
事件発覚から公判が始まるまで、少なくとも、報道レベルでは、母親の姿のイメージができない。ただ、拘置所での面会では、多少母親のことを聞くことができた。中学では塾に通っていたが、その理由は「親に言われてなんとなく」だと語り、筆者が「どちらか?」と聞くと、「母親です。父親は仕事中心で、子育ての時間はなかったです」と答えている。そして、思い出としては「料理」を挙げていた。
そんな母親とは7年間会っていない。白石被告が卒業後、スーパーに就職したことで一人暮らしを始めた。その後に両親は離婚することになる。
白石被告の逮捕後、家族から手紙が届いたことはなく、面会に訪れたこともないという。
「寂しいし、切ない。しかし、これだけのことをしたのだから、仕方がない。本当に申し訳ないことをした。自分の存在があったことを忘れて生活をしてほしい」
白石被告は父親とは不仲で、そのために一人暮らしをしたといっても過言ではない。家族からの手紙がなく、面会にもこないがないことへの感情的な吐露は、母親を念頭に置いた発言ではないだろうかと筆者が思うほどだ。そんな母親の供述調書の一部を抜粋する。
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平成元(1989)年に夫と結婚し、平成2(1990)年10月9日、隆浩を出産しました。3086グラムでした。隆浩という名前は、いろいろな本を読んで、画数などから決めました。初めての子育てでした。幸せに暮らしていました。
平成4(1992)年に長女を出産。手狭になったために、座間市内に家を買いました。年に1回は家族旅行をしたり、実家に行ったりしました。自由に物事を考えてもらいたいと、過剰には干渉しないようにしました。そのため、わがままに育ったかもしれません。言うことを聞かなくても、手を挙げることはしていません。
5歳のとき、幼稚園に入りました。活発な子と比べると、内気でしたが、友達はできました。サッカークラブに入りましたが、ボールを回してもらえないため、1年でやめました。いじめがあったわけではありません。
小学校の低学年では扁桃腺の病気があり、月1回は熱を出し、病院に行っていました。大人しい性格で、内弁慶でした。ただ、学校の出来事は話してくれました。小学校入学のとき、テレビゲームを買ってあげました。当時は1日2時間。ゲームに夢中でした。何度も注意しました。しかし、外にも遊びに行きました。