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 自殺者の霊は二人になって次の犠牲者を引っぱる。それが増えて地縛霊団となり、「魔の踏切」「魔の淵」などといわれるようになっていくということである。

 テレビの心霊番組はおどろおどろしい音楽や、若いタレントの仰々しい悲鳴などで人を白けさせるが、霊を単なる好奇心で見せ物にするものではない、と心霊研究の泰斗は憤慨しておられた。

 キャア、コワイ、と叫んでいるあの若い人たちも、うかうか生きていると、やがていつか自分が死んだ時、人からキャア、コワイ、といわれる霊になるかもしれない。ひとごとではない、我々はみな、その可能性を持って生きているのである。

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 そこで大切になってくることはこの世に生きている間の、日頃の心構えだ。科学万能の現代に生きているうちに、我々は死後は無だと手軽に考え、神の存在を無視するようになった。

佐藤愛子さん  ©文藝春秋

 現代人が信じるのは科学、それを産み出す人間の頭脳と力だけになりつつある。人の死後という大切な問題はエンターテインメント化されるか黙殺されるかのどちらかで、神を思い出す時は入学や出産を心配する時だけになった。神社仏閣への参拝は必ずしも信仰心からではなく観光を兼ねるようになった。

「死後」を見据えて日々を送る

 霊の存在を認めずにはいられなくなった時から、私は自分が実に傲慢に、恐れを知らずに生きていることに気がついた。

 たった一枚の着物への執着から成仏出来なかったという女性の霊の話などを聞くと、これはうかうかと生きてはいられない、と思う。執着や欲望や心残りや憎しみを死後まで引きずらないようにしなければと思う。

 昔の老人は「いつまでも元気に楽しく美しい老後」などとは考えなかった。老いるとすべての人が自然に衰え枯れた。髪染めも皺取りクリームも入歯も白内障の手術も栄養剤もなかったから、年をとると自然に歯ヌケのシワクチャ婆さん爺さんになった。肉体が衰えると情念も枯れ易い。因業婆ァといわれた婆さんでも、死が近づいてくると「よいお婆さん」になった。情念が枯れて、自然に死を受け容れる心境になるのだろう。

©iStock.com

 煩悩があるから若々しくいられるのだ、欲望を失ってはダメです、とこの頃はいう。いつまでも若々しくいようとすれば、それを可能にする手だてはいくらもある。現代人が考えるのは「死後」の平安ではなく、「死ぬ時」の平安だ。人に迷惑をかけずに、苦しまずに死にたいということをみな考えている。

 しかし大事なことは「死に際」ではなく、「死後」なのだ。肉体がある限りこの世の不如意や不満・不幸は自分の努力で克服することが出来る。人の教えに頼ったり、助けを得たり出来る。しかし肉体がなくなったあの世では考えることも意志をふるうことも出来ない。自分の引きずっているものをどうすることも出来ず、永久に引きずりつづけていかなければならないとしたら……。

 この世にいる間にせめて、怨みつらみや執着や欲望を浄化しておかなければ、と私は思っている。

老い力 (文春文庫)

佐藤 愛子

文藝春秋

2010年11月10日 発売