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「女性にしかない表現があるような気がする」

『累ーかさねー』という、土屋太鳳のもう一つの「裏代表作」ともいうべき映画がある。松浦だるまの優れた漫画原作を元にしたその映画で、土屋太鳳は芳根京子とともに、人格を入れ替える2人の女性、ニナと累を「2人二役」で演じる。

 美しいが深い表現力に欠ける人気女優の丹沢ニナと、顔に醜い傷を持つ無名の天才、淵累。コミック表現の上ではイメージ的に処理が可能な「演技のうまさ・演技の下手さ」だが、実写映画ではまったく逃げ場がない。まさに演技力だけで演技の巧拙を表現するという挑戦的な作品だったが、土屋太鳳と芳根京子はみごとにそれに応えた。

 映画のクライマックスで、ニナと累の2人が激しく人格を入れ替える時、観客は2人の魂が顔から離れるのを感じる。ニナがどういう顔で、累がどんな顔だったか、土屋太鳳と芳根京子の演技力によって観客のイメージの中で人格と肉体が分離されるのだ。それは社会から排除される女性と社会に消費される女性、コインの両面のように背中合わせの女性性を表現した作品になっていた。

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周囲から「がんばりやさん」と言われる土屋

「私が自分の職業について、役者とか俳優ではなく、女優という言葉を選んでいるのは、心が女性であることによって、女性にしかない表現があるような気がするからなのですが、それは役を通してたくさんの女性の時間を生きてきた時に、いろいろな意味で平等とか公平ではないのだなという実感を感じてきたからなのかなと思います」

 土屋太鳳は3月12日、国際女性デーについてのインスタグラム投稿でそう書いた。それは同世代の女優、松岡茉優が「ずっと女優という呼称に抵抗があったが、樹木希林さんや安藤サクラさんと共演して『女優でいいんだ』と思えるようになった」と語った言葉を思い出させる。

これまでの芸能界とは違う時代が始まる

 土屋太鳳や、土屋太鳳のことを「自分たちの世代の一筋の光、ずっと正統派であり続けている」と表現する松岡茉優たちは、女優という言葉の意味を彼女たちの色に塗り替えていく、新しい世代になるのかもしれない。18歳から26歳までを売れるだけ売り抜けるというこれまでの芸能界の主流とは違う、彼女たちの長いアウトプットの時代が始まるのだ。

 その時たぶん、日本のどこかの教室で、保健体育の女性教師やダンスの指導者たちが生徒たちを前に、「先生は昔ね、日本女子体育大学で土屋太鳳さんと同級生だったことがあるんだよ」と誇らしく語るのだろう。

 そうして土屋太鳳たちとともに歩き、少しずつ世界を変えていく彼女の同世代の数は、決して少なくはないと思う。なぜなら土屋太鳳には8年分の同級生、同じ汗を流して学んだ女子アスリートの仲間たちがいるのだから。