一流どころを使わないとダメだった
――坂本さんはすでにバンド・メンバーだったんですね。
山下「坂本くんとはシュガー・ベイブ時代からの知り合いだったから。彼はいいとして、ベースとドラムはもっとうまいやつに頼まないとどうしようもないと。中野サンプラザだったかな。リハーサルをしていたポンタと大仏(高水健司・ベーシスト)に交渉したんです。彼らは、とにかくギャラが高いんですよ。普通のライヴだったら1ステージ6万から8万は取ってたから」
――当時のおカネで、ですもんね。
山下「しかもリハで半額取る。それでもどうにも困ってたから交渉しに行って、40分の本番をオーケーしてもらった。で、スタジオで練習したら、2日やっても3日やっても出来なかったものが、ものの30分で4曲仕上がってしまったんです。『LOVE SPACE』とスモーキー・ロビンソンの『OOH BABY BABY』と『CIRCUS TOWN』あたりをやったと思うんだけど」
――「SPACY」で具体化した世界をライヴで再現しようとしたら、結局一流どころを使わないとダメだった。
山下「それでライヴもポンタとやるようになった。どういう経緯だったかわからないけど、松木さんが岡沢(章)さんとやりたいと言い出して、ポンタ、岡沢、松木、坂本、サックスの土岐英史というラインナップが固まっていった。吉田美奈子は当時僕と同じレコード会社で、彼女はポンタたちとずっと仕事していたこともあって、その延長で学園祭なんかでよくジョイント共演していたんです。
美奈子が77年に出した『TWILIGHT ZONE』も、ほぼ同じメンツでレコーディングしていたから。学園祭だとギャラが出るからね。僕と美奈子と、じゃんけんで出番を決めて、美奈子のステージの時は僕がセカンド・ギターで入って、ギター2本でやったりしていた。ソロ・ライヴは、メンバーのギャラが高くて出来なかったけど、一方でライヴハウスだと一人2万円払えば来てくれるので、僕はノーギャラにして、みんなに2万円ずつ払って、それでなんとかペイできていた。
六本木ピットインにしても新宿ロフトにしても、動員はすごくよかったんです。そうこうしているうちにバンドとしての特色が出てきて、そこにライヴ・アルバムを出さないかという話が、レコード会社のディレクターから持ち上がったんです。『SPACY』が制作費のわりに売れなかったというのも大きいんですけど。ライヴ・アルバムだったら……」