ロック、ジャズ、R&Bの混沌の中からバ~ンと出てきたもの
――こう来たからこう行くぜ、みたいな。
山下「そうです。山下洋輔さんの名言にいわく、『音楽は勝ち負けである。喧嘩は勝ち負けではない』。勝ち負けって言っても、ジャズのプレイヤーにありがちな、下手なやつをいびる、みたいな話じゃないんですよ。いかに出てきた音に即応できるか。
しかもそれは、先ほどお話しした、『3時間で2曲録る』といった、ある時代のスタジオ・ミュージシャンが求められていた現場の要請の中から生まれてきた。ロックンロールが生まれた50年代から60年代を経て70年代に至る、音楽ルネッサンスの閃きから生み出されたものなんですよ。ロックンロールとかジャズとかリズム&ブルースとかが渾然一体となっていた、その混沌の中からバ~ンと出てきたもの。それがあの時代には確かにあったんです。
一方で、『SPACY』なんて、当時の売り上げは2万枚にも届いてないからね。1万4千枚くらいだった。そういう中で、ああいう“創造”が生まれていたんです。だんだんビッグ・ビジネスになるにつれて、ある種ポピュリズム化したというか、売り上げへと優先順位が移ってきた。カラオケで歌いやすいとかね。僕もずっと言われてきたから。『なんでカラオケで歌えるような曲をもっと作らないの?』って。何を言ってるんだ、人様ができないこと、たとえばバック宙10回できるからおカネをいただけるんだと、そういう時には答えてきたけど、わかってもらえなかったですね」
当時の野音の客って、基本「ノレるかノレないか」だった
――「SPACY」に続いて、ポンタさんをドラムに据えた2枚組ライヴ・アルバム「イッツ・ア・ポッピン・タイム」が発表されます。
山下「シュガー・ベイブを解散してからしばらく、自分の自前のバンドが持てなくなっていたんです。知り合いのバンドと演奏したりしていたけど、ライヴをやる数がどんと減っていた。そんな状態で『SPACY』を出した後、日比谷野音のスプリングカーニバルの仕事が入ったんです。
当時の野音の客って、基本『ノレるかノレないか』だったから、シュガー・ベイブで出ていた時も、必ず野次られてたのね。『ノレねえぞ』とか『もっとノレる曲をやれ』って。大体ウエスト・ロード・ブルース・バンドとか上田正樹がトリだったから」
――そこにシュガーが出ていくと、アウェイ感が。
山下「だからあの手の野外フェスに出る時、シュガー・ベイブって必ず出番がトップだったんです。トップだったらまだ客がクールだから、野次られはしても、少なくとも物は飛んでこない(苦笑)。
そんなわけでスプリングカーニバルの話が来た時、困り果ててね。知り合いのメンバーでいくら練習しても、さっぱり形にならない。その時もピアノは坂本くんだったけど、ベースとドラムがなにしろものにならなかった」