半ば制度の問題、半ば実存の問題でもある難しさ
ここまで「弱者男性」という言葉を使ってきたが、この言葉はどうしても女性や性的マイノリティとのコンフリクトを前提としてしまう(そして女性に対する憎悪や嫌悪を増幅してしまう)から、異なる概念がいるのではないか、と述べてきた。それをここでは、「非正規的なマジョリティ男性」と呼んでおく。
すなわち、正規の雇用、正規の家族像、正規の人生、あるいは正規とされる「男らしさ」、覇権的な男性性、等々から脱落し逸脱した多数派の男性たちのことだ。
たとえばこれを社会的に強いか弱いか(特権性があるかないか)ではなく、運不運や幸不幸の問題である、と言ってしまうと、それはあくまでも個人の問題、自己責任の問題になってしまう。金持ちのイケメンでも不幸な奴はいるし、幸福な貧者もいるだろう、という話になってしまう。
しかし、特権集団としての多数派の男性たちの中にも、幾つかのレイヤーがあり、様々な形で正規性から脱落した男性たち――男性学では従属的な男性とか、周縁的な立場の男性たちと呼ばれてきた――は存在する。社会的に見えにくい、あいまいな、グレーな領域の存在であっても。
それは半ばまでは制度や社会の問題であると言えるし、半ばまではその人本人に固有の問題、実存の問題であるかもしれない。
「男もつらい」ではなく「男がつらい」から始めよう
男性の「つらさ」ということがいわれる。
では、多数派男性の「つらさ」とは何だろうか。どのような言い方をすれば「つらさ」を語りうるのか。これもまた極めて語りづらい、繊細な領域の事柄であるだろう。
たとえば「男もつらい」「男だってつらいんだ」と言ってしまえば、これは女性や性的マイノリティとの比較において「女性や性的マイノリティもつらいだろうが、男性もつらいんだ」という優越を競うようなニュアンスになってしまう。リアクションになってしまう。
他方で「男はつらい」という言い方をすると、それは「男性一般はつらい」という被害者性を強調した意味になって、主語(私たち=男たち)があまりにも大きくなりすぎてしまう。
これらに対して、「男がつらい」という言い方にすれば、「(この私にとって)男がつらい」という意味になるのではないか。すなわち、他者との比較や優越の話ではなく、「この私」にとって「男らしさ」という正規とされる規範性それ自体がつらいし、抑圧的なのだ、というニュアンスになるのではないか。
男がつらい。多数派の男性たちであっても、ひとまず、そう言っていい。声に出していい。
いずれにしても「男がつらい」のその「つらさ」には、さまざまな複雑な要因が絡まりあっているはずだろう。重要なのはそれを男性たちが内側から――もちろんマイノリティたちの実践から学ぶこと、他者たちの声に耳をすませながらそうするのは望ましいことだ――解きほぐしていくことである。
自分の「つらさ」の原因を作り出す「敵」がどこかにいる、という話にしてしまえば、それは「陰謀論としてのアンチフェミニズム」に行き着いてしまうだろう。