反差別的で脱暴力的な「弱者男性」はあり得るか?
他方で、こうも考える。ここには、どうしても、いったん、「弱者男性」とは異なる概念が必要なのではないだろうか。「弱者」という言葉が、すでに、アンチフェミニズムやアンチリベラルを強く含意してしまうからである。
アンチフェミニズムやアンチリベラルへと向かう欲望を切断して(「あっちが批判してきたから言い返しているだけだ」という被害者意識を断ち切って)、「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか。
もちろん「弱者男性」たちが主にネット上で集団的な攻撃性を発揮してきた、という文脈や歴史はすでに消し去ることができないとしても、そうした攻撃性から身を引き剥がそうとする当事者性を帯びた「弱者男性」の概念が再構築されてもいいだろう。
すなわち、ミソジニストやヘイターやインセルにならないような、反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか。日々のつらさや戸惑いや取り乱し、あるいは足元の問い直しとともにある「弱者男性」たち――これがたんなる抽象論だとは思わない。私のまわりの同年代の男性たちや、非常勤講師の授業でであった学生さんたちの中にも、そういうタイプの男性たちがたくさんいると感じるから。
色々な幸運に恵まれてかろうじて生きてこれた私のような人間からすると、色々と過酷で厳しい状況にあっても、なんとか闇落ちせずに必死に「踏みとどまっている」男性たちの日々の努力は――比較や優越を付けることなく――もっと肯定され、尊重されていいことに思える。非暴力的で反差別的であろうと努力していること、それは立派でまっとうなことなんだ、と。
「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力が必要
ただし、ここで「肯定され、尊重されるべき」と言うのは、異性や社会からの承認を求めることであるよりも前に、「自分(たち)」の力によって行うべきことである、と私は(現時点では)考える。
男性学は女性学やフェミニズムを受けての学問、メンズリブはウーマンリブを受けての生活改善運動という面が強かったが、弱者男性論もまたリアクションとして語られてきた面がある。しかし、弱者男性論もまたリアクションではなく、積極的なアクションとして再設定すべきではないか。
つまり「異性からの承認待ち」ではなく、「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力がもっとあっていいのではないか。そのためには、SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、ゲーム感覚で他者を叩くことから、自分たちの日常を解放する必要がある。