大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨや歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。
その一つが「男性特権」であり、不公平で不平等な性差別的構造に対するマジョリティ男性たちの無自覚な加担の問題である。しかし、マジョリティとしての多数派男性の特権性の問題を自分事として引き受けることに、まだまだ戸惑いや違和感を覚える男性たちも多いように思われる。
そうした状況の中で、あらためて、「弱者男性」論がネットを中心に注目されている。
とはいえ、そこで言われる「弱者」の基準は、今もまだはっきりしない。それは労働の非正規性や収入の話なのだろうか。「キモイ」と言われるような容姿の問題なのか。「コミュ障」とも自嘲されるコミュニケーション能力の問題なのか。あるいは実際に恋人や結婚相手などのパートナーがいるかどうか、という話なのか。「キモくて金のないおっさん(KKО)」と言われるように、それらの連立方程式のような話なのだろうか。
そうしたことがはっきりしないので、議論がうまくかみ合わない。論争や敵対が増していく。そういうこともやはりあるようだ。
「弱者男性に女性をあてがえ」論まで登場
すでに多くの指摘があるように、弱者男性論はアンチフェミニズムやアンチリベラリズムとセットになるケースが多い。
たとえば環(@fuyu77)は次のように指摘する。「弱者男性論の本質」は「個別の弱者的状況よりもフェミニズムとのコンフリクトにある」、と(「一連の「弱者男性論」言及から見えて来た「弱者男性」概念のコアとその将来への提言――フェミニズムとのコンフリクト――」)。「コンフリクト」の中から「カウンター」としての弱者性の意識が強化され、それが明確な「アンチ」の立場になっていく。
女性や性的少数者よりもマジョリティの男性(の中の弱者)の方がいっそう不幸であり、真の被害者は弱者男性であり、国家や社会からの制度的支援が何もない――というように、弱者男性論は個々人の実存の話から制度の話になっていく。
さらには「制度設計によって弱者男性に女性をあてがえ」論(いわゆる「あてがえ」論)のようなものも出てくる。そこまで極端ではなくても、勝ち組の強者女性は負け組の弱者男性を積極的にケアすべきだ、という要求なども見られる。