たとえば私は2016年に『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)という本を出したが、この本の議論はネトウヨやミソジニストと紙一重ではないか、という感想をいくつかもらったことがある。
一読してもらえればわかるが、確かに、私の中には女性憎悪と紙一重の女性恐怖のようなものがある。そのことは否定しえない。しかし、非モテからインセルへと闇落ちしかねない人間の中にすらなお残っている尊厳を、何らかの形で、脱暴力的かつ反差別的なものとして積極的に言葉にしてみたい、という気持ちが私にはあった。
たとえば私は『非モテの品格』の中で、依存症研究などを参照し、男の弱さとは自分の弱さを認められない弱さではないか、と論じた。自分の弱さ(無知や無力)を受容し、そんな自分を肯定し、自己尊重していくこと。
その点では、地位も権力もあって己の特権に無自覚でいられる男性たちよりも、弱者男性たちのほうがまだ「救い」(解放)に近いのではないか。
このような言い方をすれば、やはり、抽象的な理想論に聞こえるかもしれない。しかし、問いはすでに、たんなる個人的で実存的な問題の閾を越えて、「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が自分たちにとっての新しい生の思想をどうつかむか、という次元にある。私はそう考えている。
承認から自覚へ。そして責任へ
他者からの承認を期待することは、それが満たされないと、被害者意識や攻撃性に転じてしまう。それならば、他者からの承認を期待するのではなく、当事者としての自覚を持つこと。自分たちをマイノリティや社会的弱者と呼べるとは思わないが、それでも、非正規男性(弱者男性)としての当事者性を自覚していくこと。承認から自覚へ。そして責任へ。そうした意識覚醒が必要ではないか。
非正規的で「弱者」的な男性たちには、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義や能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、オルタナティヴでラディカルな価値観――を見出すというチャンス=機縁が与えられているかもしれないのだ(もちろんそうした著作や思想はすでに様々にあるが、それらを具体的に点検していくことは、別の場で行おうと思う)。
もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう。
誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。