昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/04/27

惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある

 とはいえ、ここでいわれる「弱者男性」とは、必ずしも社会的弱者やマイノリティとイコールではないだろう。後述するように、もう少し繊細な語り方によってしか取り出しえない実存/制度・構造のはざまの領域がある。

 救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある、ということ。そのことをせめてわかってほしい。「多数派の男性はすべて等しく強者」という乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。誰々よりマシ、誰々に比べれば優遇されている、という優越や比較で語らないでほしい。不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。そうしたささやかな願いが根本にはあるのだろう。

 あらかじめいえば、私は、そうした根本の声は絶対的に肯定されるべきである、と考える(ただし、後述するように、それを「異性にわかってほしい」という承認論によって解決しようとするべきではない、とも考える)。

「強者」とされるからそれに対抗して「弱者」という言葉が選択されるが、そもそも本質はそこにはないのではないか。誰かとの比較や優越によって強い/弱いということではなく、生存そのものとして、惨めで、尊厳を剥奪され、どうしようもない人生があるということ。その事実すらも否定されたら、あとはもう――。

 本当は「男性」という属性すらどうでもいいのかもしれないが、男性というマジョリティ性から脱け出すこともできないのである。

貧しい選択肢しかない、と感じられてしまう状況

 これもしばしば指摘されるように、「弱者男性」と言っても、発達障害や精神疾患の傾向のある人や、「軽度」の知的ハンディのある人や、虐待やイジメの被害者など、様々な問題が絡み合っているし、グレーゾーンの人もたくさんいるだろう。

 それに対して、「ちゃんとした理由があるからあなたはマイノリティ男性、それ以外は男性特権に居直った無自覚な男性たち」とわかりやすく線引きすることができるだろうか。たとえば障害者介護の経験から私が学んだのは、個人や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない、ということだ。曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、支配になりうるから。

 本当にもうダメだと思って、惨めで、むなしく、悲しく、生まれてこなければよかったとしか感じられなくなったときに、藁をもつかもうとして手を伸ばすと、異性愛の恋愛によって救われたいとか、有名人になって一発逆転しなきゃとか、ネトウヨやインセルやアンチフェミニズムの闘士に闇落ちするとか、それらの貧しい選択肢しかない、と感じられてしまうこと。

 そのことがやはりあらためて、それそのものとして問われていいのではないか。そうした「弱者男性」たちの暗黒領域に光を差し込ませる言葉(思想)が必要であり、多様な実践が必要なのではないか。