1ページ目から読む
3/3ページ目

全国紙はまず、自らの立場を示さねばならないのでは?

 朝日新聞はオピニオン欄で次の批評を載せた。

『ジャーナリズムの不作為 五輪開催の是非 社説は立場示せ』(山腰修三のメディア私評・5月14日)

 ジャーナリズムの不作為とはメディアが報じるべき重大な事柄を報じないことを意味する。「高度経済成長の時代に発生した水俣病問題は当初ほとんど報じられなかった」。

ADVERTISEMENT

 今はそれが東京五輪の開催の是非をめぐる議論ではないか?と問うているのだ。

《5月13日現在、朝日は社説で「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言していない。(略)社説から朝日の立場が明確に見えてこない。内部で議論があるとは思うが、まずは自らの立場を示さなければ社会的な議論の活性化は促せないだろう。》

 この批評を載せたあとも朝日の社説は応えていない。皮肉だ。

堂々と「論」を述べた信濃毎日新聞

 そんななか5月23日の日曜、ある地方紙の社説が注目を集めた。

『東京五輪・パラ大会 政府は中止を決断せよ』(信濃毎日新聞)

 この社説はSNSでも話題を呼んだ。

《病床が不足し、適切な治療を受けられずに亡くなる人が後を絶たない。医療従事者に過重な負担がかかり、経済的に追い詰められて自ら命を絶つ人がいる。7月23日の五輪開幕までに、感染状況が落ち着いたとしても、持てる資源は次の波への備えに充てなければならない。》

 そして、

《東京五輪・パラリンピックの両大会は中止すべきだ。》

 信濃毎日新聞の社説になぜ多くの人が注目したのか。開催中止を訴えたからだろうか?

 いや、新聞社として堂々と「論」を述べたからだと私は考える。開催賛成の新聞社はその理由を明確に訴えればよい。言論機関として賛否が分かれる案件をどう考えるのか。「答えはイエスだ」でいいのか。五輪スポンサーとしてずっとムニャムニャしているのか。カネは出すが口も出すではダメなのか。

 五輪の片棒を担いだ全国紙はダンマリで、地方紙のほうがきちんと言論を放つ。スポーツ紙のコラムのほうが元気。

 2021年の五輪の記憶として残しておく。