競馬は、競走馬だけでは成立せず、騎手だけでも成立しない。馬主や生産者、調教師、騎手……さまざまな人の関係性があってこそ成立するスポーツだ。だからこそ、関係者たちの絆が垣間見える瞬間に、多くの競馬ファンは心を打たれるのではないだろうか。
ここでは、小川隆行氏らが歴史的な名馬のエピソードを執筆した『アイドルホース列伝 1970-2021』(星海社新書)の一部を抜粋。和田竜二騎手の騎手人生を大きく動かしたテイエムぺラオーを取り巻くさまざまな“絆”を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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調教師と騎手の間にあった「見えない絆」
2018年の宝塚記念。ミッキーロケットに騎乗した和田竜二は、JRAのGⅠで17年ぶりの勝利を収めた。自身8回目の、テイエムオペラオー以来となるGⅠ奪取であるが、彼は決して乗れていなかったわけではない。逆に騎手としての信頼度は年々高まっていた。
オペラオーでGⅠ5勝を挙げた00年、当時23歳だった和田は年間41勝(東西リーディング22位)。17年後、41歳の年に30勝以上も上積みして71勝(同18位)を挙げている。オペラオーで騎手人生のベースを築き、以来順調に勝ち星を積み上げてきた「伸び盛りのベテラン」にもかかわらず、17年も芝GⅠと無縁だったのだ。ちなみにオペラオー以降のJRA・GⅠ通算成績は[1・10・9・106]。リーディング中位騎手でこの数字は、いかにGⅠを勝つことが難しいかを物語っている。
付け加えると、この間の騎乗馬のうち1番人気は1頭(14年阪神JFロカ)のみで、3番人気以内の騎乗頭数はわずか12頭である。
オペラオーの全盛期だった20世紀末までの競馬社会は、今ほどの乗り替わりはなく、和田もオペラオーの全26戦すべてに騎乗している。GⅠ7勝以上馬のうち、全レース同じ騎手だったのはオペラオー以外にシンボリルドルフ(岡部幸雄)とディープインパクト(武豊)の2頭のみである。
和田自身「あの時があって今がある」と言って憚らないのも、岩元市三調教師とオペラオーに助けられたと自覚しているからだ。
4連勝で皐月賞を勝ったオペラオーは、その後ダービー3着、京都大賞典3着、菊花賞2着、有馬記念3着。人気馬をマークしての惜敗もある中、一番いただけなかったのは単勝1.1倍でクビ差2着だったステイヤーズS。このとき、我慢強く和田を乗せ続けた岩元師は和田を育てたい一心で、騎手交代を願う馬主の竹園正繼氏に「だったら転廐させろ」と啖呵を切ったそうだ。幼なじみの両者が固い絆で結ばれていたからこそのやり取りである。今よりも馬主と調教師、調教師と騎手の間に「見えない絆」があったのだ。