人工心臓研究から聴覚研究に“転身”
――心臓から聴覚の研究に移られたのは、何か理由があったんですか?
伊福部 心臓研究の実験には犬を使うんですが、どうしても犬が死んでしまうんですよ。ちょっと、それが辛くて、自分には合わないなと指導教授に相談に行ったんです。そうしたら、じゃあ耳の研究はどうだ、音楽家の親戚もいるんだしって。その教授も叔父のファンだったんですよね(笑)。
――聴覚の研究というのは、当時それほど進んでいなかったのではないですか?
伊福部 そうですね。意外と遅れてる分野だなと思いました。当時は、今のように研究書をネットで注文してすぐに手に入れられるような世界じゃありませんから、札幌での研究はなかなか大変でした。ただ、逆に言うと、あれこれと情報に振り回されずに、自分でじっくりと研究できたのはよかったかもしれません。コウモリがどうやって音を聞いているのかを調べるために、千歳のママチ川にある洞窟に網持ってコウモリ捕りに行ったこともありました。コウモリって捕まえるの大変なんですよ。網のところに来たと思ったらシュッていなくなっちゃう(笑)。北大時代は、そんなこともしながら聴覚研究に専念していました。
伊福部研究室のベンチャー企業と初音ミク
――伊福部さんの北大時代で特筆すべきことの1つは、日本ではかなり早い段階で学生ベンチャー企業が生まれた研究室を指導されていたことです。画期的ですよね。
伊福部 あれは1980年のことですね。私の研究室の大学院生が日本初のマイコンの会社を作ったんです、BUG(ビー・ユー・ジー)という名前の。彼はビル・ゲイツと同い年で、4KBのメモリや仮名文字ディスプレイなどが100万円するような時代でしたが、安く済ませるために部品を買い集めて自分で作ってしまうような学生でした。それで、私の研究室が札幌聾学校と一緒に研究をしていまして、聾学校の子たちとはタイプライターで文字を打ち込んでコミュニケーションをとっていたんです。そのうちに、音声を自動的に文字化される機械が欲しいということになって「音声タイプライター」というのを作ったんです。このコンピューターの実用化など、様々な製品を開発して注目も集めたのですが、当時は「大学で商売なんて!」って雰囲気ですからね、風当たりが強くて大変でした。産学連携なんてもってのほかという(笑)。
――今や学生ベンチャーは推奨されるくらいの時代になりましたから、隔世の感がします。ちなみに、音声タイプライターはその後どうなったんですか?
伊福部 紆余曲折あって、この機械自体は不要になっていきましたが、現在国際会議などで使用されている「音声自動字幕システム」などは、この技術を応用したものです。また、BUGからはいろんな会社が派生して、「サッポロバレー」と呼ばれるほどにまでベンチャー企業が活気付いたんですよ。初音ミクを生んだ「クリプトン」が札幌でしょう。今もまだ、サッポロバレーの水脈は続いていると思います。