渡辺淳一の師 河邨文一郎との奇縁
――伊福部さんも叔父様と同じく北海道大学に進まれました。
伊福部 叔父は帝大時代の北大ですね。農学部の林学実科。私は工学部電子工学科でした。
――工学部でありながら、医療関係の研究をされていたそうですね。
伊福部 北大には、当時、工学部と医学部が一緒になって医療機器を開発する研究室がいくつもあったんです。私は、そこで元々は音楽にも耳にも関係ない、人工心臓の基礎となるような研究をしていたんです。心臓は1分間にどれだけの血液を出すのかを計測するようなものですね。あるいは病院との共同研究で、心臓に病気のある人の血流を計測したり。
――日本初の心臓移植手術、札幌医大の「和田心臓移植」は……。
伊福部 ええ、修士の時に話題になりましたから、よく覚えていますよ。68年ですか。
――患者が術後83日目に死亡して、手術の妥当性をめぐる大きな議論になりました。
伊福部 大変な波紋を呼びました。当時、札医の整形外科で講師をしていた渡辺淳一がこの事件を元に小説を書いていますよね。渡辺淳一を指導していたのが整形外科医でポリオ(小児麻痺)の療育分野で世界的な権威でもあった河邨(かわむら)文一郎という人。実は私、この河邨先生に手術を受けているんですよ、小さい頃に。
――そんな縁があるんですか?
伊福部 ええ、木登りして落っこちて頭蓋骨陥没。九死に一生を得るような大怪我をしましてね。最悪の事態から救ってくださったのが、河邨先生だったんです。先生は陥没した頭蓋骨のレントゲン写真を見せてくださったり、いろいろな医療器具の使い方を教えてくださって、科学分野への興味を広げてくださった恩人でもあります。あと、河邨先生は詩人でもありましてね。
――詩人ですか。
伊福部 72年の札幌オリンピックのテーマソングにトワ・エ・モアが歌った『雪と虹のバラード』ってあったんですけど、その作詞は河邨文一郎です。近所だったんですよ、先生。それでうちにもよく遊びに来てたんですけどね。