「十年兵を養う、只一日之を用いんが為なり」
われわれが海軍にはいってから今日まで、ただただ今日このことをなさんがために、苦しい訓練を続けてきたのだ。
「十年兵を養う、只一日之を用いんが為なり」
という古語に、この時ほど実感をもったことはない。
この戦果はおおむね所期のとおりであるが、かえすがえすも惜しまれるのは、レキシントン、エンタープライズ2隻の航空母艦を撃ちもらしたことである。事後の作戦経過を考えるならば、これは戦艦の3隻や4隻には替えられないものがある。
この攻撃において、飛行機搭乗員が、生還を期していなかったことは、次のような事例でも明らかであろう。
(一) 第二次攻撃隊制空隊の蒼竜分隊長飯田房太大尉は、母艦発艦前部下に対し、被弾等のため帰投が不能であると判断した場合には、自爆して捕虜となるのを避けるように訓示していた。同大尉はカネオヘ基地攻撃後、自機のガソリンが被弾のために漏れているのを発見したが、列機を率いて母艦の方向にしばらく飛び、列機にその方向を明瞭に理解させた後、手を振って列機に別れを告げ、従容としてカネオヘ基地に突入し、壮烈な戦死をとげた。
(二) 第二次攻撃隊の制空隊でヒッカム飛行場を銃撃したのは、赤城および加賀の戦闘機である。その中で未帰還は、加賀の五島一平飛曹長と稲永富雄一飛曹である。だからこの話は、この2人の中の1人であるが、五島飛曹長の算が大である。それは、彼を最後に見た加賀搭乗員の報告では、彼は銃撃後、もうもうたる煙の中を降下していったという。
飛行機をピストルで射って歩くパイロット
戦後、私がホノルルを訪問したとき、在留日系人から聞いた話である。
1人のパイロットは、ヒッカム飛行場に着陸し、まだ燃えていない飛行機をピストルで射って歩いていたという。日系の基地勤務員を見つけたとき、
「君たちに危害を加えるつもりはない。早く安全なところに避難しろ」
といっていたという。
どうも、射っても射っても火がつかないので、着陸して火をつけるつもりだったらしい。五島飛曹長は、小柄でガッチリした体軀をもった柔道の達人であり、その人柄からしてこんなことをやりそうな人であった。
その他、これに類することは多々あるが、ここには代表的なものだけを掲載することにした次第である。
【後編を読む】 《真珠湾攻撃》なぜ日本は“二次攻撃”をやらなかったのか「山本五十六も米国の底力を下算していた」「政治的、戦略的には大きな失敗だった」