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東京の“原罪”を背負う、「百音」という役

 安達奈緒子の脚本は、一方で朝ドラが描いてきた「上京のロールモデル」を疑いつつ、一方でやはり「近代化と女性の社会進出」を繰り返し継承する。

 ハリウッド映画が常にアメリカの正義を疑いつつ、もう一方でアメリカの理想を描き続けるように、『おかえりモネ』では朝ドラの「東京神話」を問い直す場面と、『おしん』から受け継いできた女性の社会進出を語り継ぐ場面が、打っては返す波のように交互に描かれる。

 百音を演じた清原果耶、菅波を演じた坂口健太郎は、「東京を疑いつつ近代化を進める」という秤の片方を担っていた。それは分断された伝統と革新、東北と東京を再び結び直す脚本に見えた。

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坂口健太郎 ©️getty

「“受け芝居”が続くのは本当に大変なので」坂口健太郎は『おかえりモネ メモリアルブック』の中で清原果耶をそうねぎらう。この作品で清原果耶は、未知や亮たちが持つ被災地の感情を「受け止める」芝居を演じ続けた。

 それはある意味では、震災を経験していない東京の原罪を背負うような過酷な役だったと思う。この10月に同時期公開されている映画『護られなかった者たちへ』で被災者を演じる清原果耶の演技を見れば、その2つの作品で見せる彼女の演技がどれほど違うかはよく分かる。

 球威で押すストレートも、鋭く曲がる変化球のような演技力も封印して、『おかえりモネ』の清原果耶は相手の芝居を受け止め、丁寧に投げ返す演技に徹する。それは一球もミスの許されない長い長いキャッチボールのように、脚本家が清原果耶の制球力を信じていなければ書くことのできない脚本だったと思う。

©AFLO

 物語は最終週を迎える。「できる限り痛みを忘れないこと。(中略)それが途切れないようにちゃんと心の奥で持っていることができれば、私は百音を最後まで演じることができるんだろうなと思ったので、そこは意識していました」清原果耶は『おはよう日本』のインタビューでそう答えた。

 それは正義の剣を振り下ろす共感の物語ではなく、SNSの「俺たち」ではない、他者と自分の魂を等価に秤に乗せる、理解の物語だったと思う。

「闇夜を行くようなものでした」「脱稿しても『終わった』という解放感はなく、今もこの物語について考え続けています」と、メモリアルブックの中で脚本の安達奈緒子は語る。巨大な災害、東京と東北の構造的不均衡という現実を相手にして虚構を描くのは、不死の怪物に挑むようなものだ。

 どんな名脚本家であれ、現実に解決していない問題を、虚構の中で解決できるわけではない。だが、物語の終盤では、それまで背負ってきた東京と東北の物語を交換するように、百音は地元に戻り、未知は東京への進学を決意する。朝の連続テレビ小説が描いてきた近代化と女性進出のテーマは、姉から妹へと譲り渡される。

 亮と未知の将来がどうなるのか、菅波と百音が共に生きる場所にどこを選ぶのか、今この原稿を書いている時点で最終回の展開はわからない。

 だがそのラストがおとぎ話のようなハッピーエンドでなかったとしても、それは「その次の10年」、困難と社会変動が待つ、清原果耶たちの時代のスタートになっているのではないかと思う。

2021/10/29 9:05……読者の指摘により以下の表現を修正しました。
「仙台」→「地元」