前回も述べたが、昨年から東映ビデオが旧作邦画を立て続けにリリースしている。しかも、これまで観る機会の少なかったマニアックな作品ばかり。実にありがたい。
今回取り上げる『悪魔の手毬唄』も、そんな一本。名探偵・金田一耕助が活躍する横溝正史の同名ミステリー小説を映画化した作品だ。
原作小説や本作の後に市川崑監督=石坂浩二の金田一というコンビでの傑作映画を既にご覧になっている方からすると、「既に犯人を知っているから――」と敬遠されてしまうかもしれない。が、実はそうした方でも大いに楽しむことができるのである。
というのも、舞台の地名が「鬼首(おにこうべ)」、そこでは二つの豪家が対立していること、そして底なし沼があること、事件にはこの地に古くから伝わる手毬唄が関わっていること――原作準拠なのはそのくらい。あとは何もかも異なっている。
なにせ、犯人だけでなく被害者の設定も、原作と全く違う。原作で犯人だった人物は登場すらしない。そのため、「新しいミステリー作品」として触れることができるのだ。
最も極端なのは、ご当地出身の人気歌手の設定。役名や出自からして原作から変更されていたりするが、それだけではない。原作では最後まで生き残るのに対し、本作では冒頭でいきなり殺され、それが物語の発端になっている。
その後に次々と起きる連続殺人事件でも、被害者たちは原作と全く異なる。それでいて物語展開は無理なくできていて、「強引な脚色をしている」という感がまるでない。それが渡辺邦男監督の過不足ないテンポの速いリズミカルな演出に乗って進められていくため、ハラハラした緊迫感とともに楽しむことができる。
そのため、市川崑版を強く愛している身からしても、全く腹は立たない。ここまで違っていれば、全くの別ものとして触れることができる。
金田一がオープンカーにサングラス姿で颯爽と現れるのも、後の石坂浩二版のむさ苦しさを先に知る身としては意外性十分。しかも、それを演じるのは高倉健。これも後の「寡黙で武骨な健さん」のイメージが先に定着していたため意外に思えるが、この時はこうした都会的でスタイリッシュな役が多かったりする。
こうした「後の姿を先に知っている側からすると意外に感じる」といえば山本麟一もそう。百戦錬磨のタフネスという印象が強いが、本作ではボンボンの役。後のイメージに連なる厳つい面相と青臭いセリフとのギャップが楽しい。
一本のミステリー映画としても、「後」との比較をしても、十分に堪能できる作品だ。よくぞソフト化してくれた。